ワシントン (BB-56)
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艦歴 | |
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起工 | 1938年 6月14日 |
進水 | 1940年 6月1日 |
就役 | 1941年 5月15日 |
退役 | 1947年 6月27日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:35,000トン、満載:42,330トン |
全長 | 222.11m |
全幅 | 33.03m |
吃水 | 9.64m |
最大速 | 27ノット |
乗員 | 士官:108名 兵員:1,772名 |
兵装 | 45口径40.6cm砲:9門 38口径12.7cm砲:20門 56口径40mm対空砲:60門 70口径20mm対空砲:36門 |
ワシントン (USS Washington, BB-56) はアメリカ海軍の戦艦。ノースカロライナ級戦艦の2番艦。艦名はアメリカ合衆国42番目の州に因む。その名を持つ艦としては8隻目。
ワシントンは太平洋戦争を通じ、一度だけレーダーに砲弾がかすめるという幸運に恵まれ、日本海軍の攻撃で乗組員を失うことはなかった。ガダルカナル近海の海戦でも日本海軍の放った長槍(Long Lance)とあだ名される酸素魚雷の雷撃を避け、魚雷はワシントンの航跡で爆発した。1943年に戦艦インディアナと衝突する事故を起こし、数人の水兵が亡くなった。
目次 |
[編集] 艦歴
ワシントンは1938年6月14日にフィラデルフィア海軍工廠で起工された。1940年6月1日にヴァージニア・マーシャル(ジョン・マーシャルの直系の子孫)によって命名、進水し、1941年5月15日にはフィラデルフィア海軍工廠内で就役し、艦長にハワード・H・J・ベンソンが就任した。
アメリカが参戦する太平洋戦争の開戦、1941年12月までワシントンはアメリカ東海岸沿いやメキシコ湾で整備と訓練を行った。ワシントンと空母ホーネットは大西洋艦隊のジョン・W・ウィルコックス少将の指揮下に入り、ワシントンは第6戦艦部隊を編成し、旗艦となった。
1942年3月26日、ウィルコックス少将はイギリスに向かうため空母ワスプ、重巡洋艦ウィチタ、タスカルーサなどからなる第39任務部隊を率いてポートランド(メイン州)を発った。しかし、ポートランドを発った翌日に人が海に落ちたと警報が鳴り、間もなくウィルコックス少将が行方不明であることが判明した。タスカルーサは救命ブイを投下し、天候が優れないにも関わらず空母ワスプから捜索のため航空機が発進して駆逐艦も捜索に加わった。駆逐艦ウィルソンの見張りが目を落とすと少し離れた距離の水中に少将を見つけたが、拾い上げることができなかった。旗艦のワシントンでは少将が海に落ちた原因について皆目わからず、一部の論者は心臓発作を起こしたか自殺したと考えた。
同27日12時28分にウィルコックス少将の捜索が中止され、次席指揮官であるロバート・C・ギフェン少将がウィチタを旗艦に任務部隊の指揮を引き継いだ。4月4日に任務部隊はオークニー諸島(スコットランド)のスカパ・フロー泊地に到着し、ジョン・トーヴィー大将率いるイギリス海軍、本国艦隊の指揮下に入った。
[編集] 欧州での活動
ワシントンは本国艦隊で演習と訓練に加わり、第39任務部隊は第99任務部隊に再編された。第99任務部隊は1942年4月28日にソビエト連邦のムルマンスクに向かう船団の護衛をするため出撃した。
5月1日にトライバル級駆逐艦パンジャブと戦艦キングジョージV世が衝突した。ワシントンは船体が二つに折れたパンジャブに乗り上げてしまい、パンジャブが搭載していた機雷が爆発してワシントンも損傷した。
その間に2隻の駆逐艦がパンジャブ艦長、士官4名および182名の兵士を救助した。キングジョージVは修理のためスカパ・フローへ戻り、ワシントンと護衛艦艇は5月5日までその場に留まる。このとき第99任務部隊はアイスランドのクバルフィヨルド (Hvalfjördur) に向かい、クバルフィヨルドで補給艦ミザール(USS Mizar, AF-12)から食糧の供給を受けた。クバルフィヨではアメリカ及びデンマークの高官がギフェン提督を表敬訪問し、5月12日に彼の旗艦に乗艦した。
第99任務部隊はその後本国艦隊と合流のため5月15日に編成替えが行われ、6月3日にスカパ・フローに戻る。翌日ヨーロッパ方面艦隊の司令官ハロルド・スターク提督がワシントンに乗艦、その司令官旗を掲揚し、ワシントンには臨時司令部が置かれた。6月7日にはキングジョージ6世がワシントンを視察した。
スターク提督が艦を離れた後、ワシントンはソ連の港に通じる北極海の航路を哨戒した。1942年7月14日にギフェン少将は旗艦をウィチタへ移し、ワシントンは駆逐艦4隻を伴ってアイスランドを離れた。7月21日、ワシントンはニューヨークのグレーヴズエンドに到着し、オーバーホールのため2日後にニューヨーク海軍工廠へ入渠した。
[編集] 西太平洋の戦い
1942年11月14日深夜、ワシントンはサウスダコタとともにガダルカナル島砲撃のために接近してきた日本海軍艦艇を待ち伏せ、砲撃により戦艦霧島を撃沈している。これは太平洋戦争における初の戦艦同士の砲戦であった。
ワシントンはその主砲でパラオのペリリュー州、アンガウル州に対する艦砲射撃を行い、10月10日には沖縄攻撃を行う空母部隊の支援を行った。11日から14日までルソン島北部および台湾に対する攻撃を行い、21日にはヴィサヤ諸島への空襲支援に参加している。1944年11月5日から1945年2月17日までワシントンは高速空母機動部隊の護衛として琉球諸島、台湾、ルソン島、カムラン湾、仏領インドシナのサイゴン、香港、広東、海南島、南西諸島、そして日本の首都である東京への攻撃に参加した。
1945年2月19日から22日までワシントンは硫黄島への上陸部隊支援として艦砲射撃を行った。その16インチ主砲と5インチ副砲による砲撃は硫黄島の日本軍拠点、砲兵陣地および将兵を撃破した。続く2月23日から3月16日まで硫黄島での支援活動を行い、2月25日には東京に対する空襲を行う空母の護衛を行った。3月18日、3月19日および3月29日には本州の航空基地を含む重要拠点に対する空襲を行う空母部隊の護衛を務め、3月24日におよび4月19日には沖縄島の日本軍に対する砲撃を行っている。
絶え間なく続いた任務の後、1945年6月1日にレイテ島サンペドロ湾に錨泊したワシントンは6月6日にピュージェット・サウンド海軍工廠にむけて出航する。途中グアムと真珠湾に立ち寄り、ピュージェット・サウンドに到着したのは6月28日のことであった。
結局ワシントンは太平洋戦線の前線に再び参加することはなかった。ワシントンの最後の軍役は8月中旬の東京湾での活動及び9月2日の降伏調印式への参加であった。その後カリフォルニア州サンペドロで修理後の公試を行い、パナマ運河を通過して大西洋に戻る。10月6日にフレデリック・C・シャーマン中将率いる11.6任務群に加わり、10月17日にフィラデルフィア海軍造船所に到着、10月27日に海軍記念式典に参加した。
[編集] 戦後
1945年11月2日、マジック・カーペット作戦の一環として陸上部隊の輸送に駆りだされることになり、その日から造船所で寝台の増設を行った。工事は11月15日に完了し、乗組員の構成は士官84名、水兵835名まで減らした。ワシントンは11月16日にイギリスへ向けて出発し、11月22日にサウザンプトンに到着した。
その後、陸軍の士官185名と下士官兵1,479名をニューヨークに輸送した。ワシントンは輸送任務を終えると1947年6月27日に予備役入りとなり、大西洋予備役艦隊のニューヨーク部隊に加わり、1960年6月1日には海軍籍から除籍された。1961年5月24日に売却、解体された。
ワシントンはノルウェー沖の北極海での活動を始め、太平洋の南から西まで駆け回った。第二次世界大戦中、13個の従軍星章を授与された。
[編集] 同型艦
- ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Maritimequest.com: USS Washington photo gallery
- history.navy.mil: USS Washington
- navsource.org: USS Washington
- hazegray.org: USS Washington
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