ロドルフォ・グラッツィアーニ
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ロドルフォ・グラッツィアーニ | |
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1882年8月11日 - 1955年1月11日 | |
生誕地 | Filettino |
死没地 | ローマ |
所属組織 | イタリア陸軍 |
軍歴 | ? - 1945 |
最終階級 | 元帥 |
指揮 | エチオピア駐留軍 リビア総軍 イタリア陸軍参謀総長 RSI軍総司令官 LXXXXVII Army "Liguria" |
戦闘 | 第一次世界大戦 第二次エチオピア戦争 第二次世界大戦 |
ロドルフォ・グラッツィアーニ(Rodolfo Graziani, Marchese di Neghelli, 1882年8月11日-1955年1月11日)は、イタリア王国及びイタリア社会共和国の軍人・政治家。
目次 |
[編集] 軍歴
[編集] 戦間期
第一次世界大戦で幾つかの戦いを経験し、終戦までに大佐にまで昇進、若手将校として頭角を現す。1920年代にはリビアで起きていた地元民の反乱を鎮圧する任務に就き、オマー・ムクターが指導していた反乱運動を厳しく弾圧した。その容赦の無い苛烈な統治から「リビアの肉屋」と渾名される。1935年にソマリランド総督に着任したグラツィアーニは、程無く起きた第二次エチオピア戦争において精鋭の機械化師団を率い、エミーリオ・デ・ボーノ将軍のエトルリア方面軍と共にエチオピアへ侵攻する。グラツィアーニは機械化部隊を生かした機動戦によって幾度と無くエチオピア軍部隊を一方的に殲滅するが、デ・ボーノの慎重策もあって戦闘は長引いた。後任のピエトロ・バドリオが毒ガスや都市爆撃も厭わない強行軍で首都を早期に陥落させ、戦争は終結する。
第二次エチオピア戦争後、国王からNeghelli侯爵の地位を与えられたグラツィアーニはエチオピアの占領統治を担当する。地元反乱軍の暗殺計画に晒されながらもリビア同様、徹底した武断統治で同地の安定化を図った。
[編集] エジプト侵攻
イタロ・バルボが不審な事故死を遂げると、後任のリビア総軍司令官として北アフリカに赴任する。1940年にイタリアが英仏に宣戦すると、東アフリカ戦線への支援を目的としてエジプト侵攻が計画される。グラツィアーニは装備や補給の面から反対したがムッソリーニの意見は変わらず、止む無く指揮下の第23軍団8万名に進軍を命じる。英軍が戦略的撤退により補給事情を更に悪化させる中、グラツィアーニはシディ・バラーニで進軍を一時停止し、陣地を構築しながらムッソリーニに欠乏している機械化戦力や戦車戦力の提供を求めた。これはムッソリーニが相次いで命じたギリシャ遠征により反故にされてしまう。そして1940年12月9日から始まったイギリス軍の反攻作戦(コンパス作戦)により第23軍団は大打撃を受けてリビア国境へ後退、グラツィアーニはバルディアで第23軍団及び第21・22軍団を合流させて頑強に抵抗するが、連日の戦艦の砲撃や爆撃の前に軍は戦力をすり減らし、最終的には突破されてしまう。退却の際に包囲された第23軍団は2月5日の最後の突撃によって壊滅し、残りの軍勢と共にトリポリへ下がったグラツィアーニは敗北の責任を取って辞任した後、退役する。
[編集] 軍への復帰
退役後は隠遁生活を送っていたグラツィアーニだったが、戦況悪化による反政府クーデターには否定的で、ムッソリーニとファシズムへの支持を取り下げる事も無かった。その後、クーデターにより失脚していたムッソリーニがイタリア社会共和国(RSI)を樹立し、クーデターに参加した将軍らを次々と粛清する中、グラツィアーニはムッソリーニより国防大臣に任命される。グラツィアーニはドイツ軍の支援の下に新たな正規軍を組織しつつ、各地のファシスト義勇兵や旧政権時代の部隊をRSI義勇軍として戦力化していった。これらの部隊は雑多な装備しかない中でイタリア戦線をドイツ軍の支援部隊として支え、またドイツ軍が戦力を本国防衛に割いていった大戦末期には多くの戦いを主力として戦い、連合軍を苦しめた。だが戦局は最早変わる状況下には無く、ムッソリーニの処刑によってRSI政府が崩壊するとRSI軍もまたその役目を終えた。そして総司令官であったグラツィアーニは戦犯として連合国に拘束され、「ナチスへの協力」という罪状で禁固19年を言い渡される。