レイトンハウス
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参戦年度 | 1990 - 1991 |
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出走回数 | 30 |
コンストラクターズタイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 8 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1990年ブラジルGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1991年オーストラリアGP |
レイトンハウス(Leyton House)は1980年代後半から1990年代前半にかけてF1やF3000、スポーツカー世界選手権などの国際格式のレースで世界的に活躍した日本のレーシングチームであり、同名のアパレルも展開し一世を風靡した。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] スポンサー開始
東京都の不動産会社「丸晶興産」の社長で、オフィスビルやゴルフ場経営、ホテルレイトン、さらには照明器具落下事件で有名になった六本木のディスコ「トゥーリア」など、手広く事業を営む実業家の赤城明が、1984年の秋にレーシングドライバーの萩原光のスポンサーをし始めたのがきっかけ。
[編集] 「LEYTON HOUSE」
当初は「丸晶興産」あるいは同社の子会社の「メーベル商会」名義でスポンサーを行っていたが、「レーシングカーに漢字やカタカナは格好悪い」という社員の意見から、1985年の後半よりイギリスの地名を使った「LEYTON HOUSE」ブランドを使い始めた。
[編集] 活動拡大
ところがレイトンハウスの名前を冠したレーシングチームを立ち上げたばかりの1986年4月、萩原はスポーツランドSUGOでのメルセデスベンツ190E2.3-16のマシンテストの最中にクラッシュしそのまま死亡。ここでスポンサーを辞めてレース界から退くという選択肢もあったが、萩原の遺族の意向もあり、赤城はレーシングチームの運営を続行する。
その後も富士グランドチャンピオンレースや全日本F2選手権(その後の全日本F3000選手権)、全日本ツーリングカー選手権といった国内レースへの参戦を開始し、それに合わせる形で「メーベル商会」の社名を「レイトンハウス」に正式に変更し、「LEYTON HOUSE」ブランドによるアパレル展開もスタートした。
[編集] 国際格式レースへの参戦
またこの頃より、当時世界的に隆盛を誇っていた世界スポーツプロトタイプカー選手権(1989年のル・マン24時間レース)をはじめとする国際格式のレースに参戦するチームのスポンサーを手がけた。
[編集] F1参戦
[編集] 1987年
1987年に、F3000やF3などのフォーミュラカーを中心として活躍していた名門のレーシングカーコンストラクターである マーチと提携する形でF1に進出し、イヴァン・カペリの1台体制で、マシンもF3000のものに手を加えたものであったが、安定したドライビングで1ポイントを奪取した。
[編集] 1988年
翌1988年には空力に優れる新型マシン、マーチ881を投入。マウリシオ・グージェルミンとの2台体制になり上位に顔を出すようになる。第13戦ポルトガルグランプリではカペリがセナを抜いて2位を獲得。第15戦日本グランプリでは、ホームストレートで一瞬だけとはいえカペリがプロストをかわしてトップに立ち、ラップリーダーを記録した(ターボエンジン車全盛の中、NAエンジン車では異例中の異例であった)。その後リタイヤしたとはいえ、この年、16戦15勝を誇ったマクラーレン・ホンダの2台を実力で抜いたのはカペリだけであったといえる。
[編集] 1989年-1991年
1989年には正式にマーチを買収し、1990年からはチーム名を「レイトンハウス」に変更した。以後のF1における活動についてはマーチ (F1)を参照のこと。
[編集] 事業拡大
チームの好調振りに合わせるかのようにアパレル事業も順調に発展、一時はアパレル事業単体で年商20億円を超えるビジネスに発展し、ついにはマクラーレンのスポンサーとしても知られた西ドイツの有名アパレルブランド、「ヒューゴ・ボス」を買収するという話までになった。また、1990年にポッカから「レイトンハウスF1ドリンク」という、このカラーをモチーフにしたスポーツドリンクが発売され話題になった。
親会社の本業の不動産でも横浜に「レイトンハウス」の名を冠した高級賃貸マンションや釧路市で式場併設のホテルレイトンも展開するなど、レイトンハウスブランドを積極的に展開していった。
[編集] チーム崩壊・倒産
しかしバブル景気の崩壊と共に資金繰りが悪化した上、1991年には赤城が富士銀行不正融資事件に絡み逮捕されたことなどが重なり、同年のシーズン終了後にはF1チームのオーナー権を手放さざるを得なくなった。翌1992年にはチームマネージャーの萩原任(萩原光の弟)らがレイトンハウスの全日本F3000部門を受け継ぐ形で「萩原レーシング」の名称でF3000での活動を継続したものの、同年一杯でF3000での活動を停止。これにより「レイトンハウス」の名前を冠したレーシングチームは事実上消滅し、以後は同チームの元スタッフらがジュニア・フォーミュラを中心とした育成カテゴリーで活動していくことになる。
企業としてのレイトンハウス並びに丸晶興産はその後も事業を継続したが、1998年6月に丸晶興産は債権者からの申し立てにより破産宣告を受けた(負債総額は約1670億円)。
[編集] チームカラー
[編集] 「レイトンブルー」
エメラルドグリーンに近いパステルカラーの「レイトンブルー」をチームカラーとし、同チームのマシンだけでなく、同時に全国的に展開したアパレルも全て「レイトンブルー」に統一したため、現在でもこのカラーがバブル景気期のモータースポーツシーンを象徴する色として語られる事が多い。 マイアミブルーといわれる。
[編集] ロゴマーク
なお、当初のロゴマークには、「LEYTON」と「HOUSE」のロゴの間に黒人が頭の上に荷物を乗せて歩く姿が描かれていたものの、ヨーロッパでのレース参戦時に、「黒人奴隷を想像させ人種差別的」との指摘を受け1987年以降削除された。
[編集] 参戦カテゴリー
- F1
- 全日本F2選手権、全日本F3000選手権
- 全日本F3選手権
- 富士グランドチャンピオンレース
- 全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)
- ル・マン24時間レース
- 全日本ツーリングカー選手権