ラムセス2世
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ラムセス2世(ラムセス2せい、Ramesses II、ラムセス大王(ラムセスだいおう)、紀元前1314頃 - 紀元前1224年、または紀元前1302頃 - 紀元前1212年)は、古代エジプト第19王朝のファラオ(在位:紀元前1290 - 紀元前1224年、または紀元前1279 - 紀元前1212年)。
その治世において、エジプトはリビア・ヌビア・パレスチナに勢力を伸張し、繁栄した。
ラムセ2世、ラメセス2世とも表記される。ラムセスという名は、ラーによって生まれたという意味の「ラー・メス・シス」のギリシア語読みである。
年代には諸説あるが、24歳で即位し、66年間統治し、90歳で没したとされる。その間、第1王妃ネフェルタリのほか、何人もの王妃や側室との間に、賢者として名高いカエムワセト、後継者となるメルエンプタハをはじめ非常に多くの子(100人以上)をもうけたと伝えられる。もっとも、この大半は養子であり王の息子の称号を与えられただけだという説もある。しかし、非常に大柄であり専用の強弓は王その人以外誰も引くことができなかったと言われる優れた戦士であった王が多くの子を残さなかったとは考えにくく、やはり彼らは王の実子であると考える者もいる。
治世の前半期はヒッタイトとパレスチナで勢力を争った。紀元前1286年、カデシュの戦いに自ら親征し、ヒッタイト王ムワタリと戦った。エジプトはカデシュの戦いでは偽情報に踊らされた結果有力な軍団を壊滅させられるなど苦戦しつつも、ラムセス2世の武勇によって勝利を収めたが、ヒッタイト勢力をパレスチナから駆逐するには到らなかった。両者ともに相手を退けるに到らず、長年戦争を続けたのち、ラムセス2世の第21年(紀元前1269年)、エジプトとヒッタイトは平和条約を結んで休戦し、ラムセス2世はヒッタイト王女を王妃に迎えた。これは世界史で最初の平和条約と呼ばれる。またカデシュの戦いにおけるラムセス2世の勝利の喧伝は、エジプト軍の軍制改革の妨げとなり後に災いを残すことになる。
ラムセス2世はまた、ナイル第1滝を越えてヌビアに遠征した。ラムセス2世は戦勝の記念碑を多く築き、現在もっとも記念碑の多く残るファラオとなっている。ヌビアは後にエジプトに同化され、本家エジプトの衰退を救う形で王朝を立てることになる。
カイサリアのエウセビウスなどキリスト教教会史家の間には、ラムセス2世を『出エジプト記』に登場するユダヤ人を奴隷から解放するようにモーセが要求したファラオと同一視する者がある(次代のファラオのメルエンプタハとする説もある)。
ラムセス2世はアブ・シンベル神殿を造営した。これはアスワン・ハイ・ダムの建設に伴って移転され、これを機に世界遺産の制度が制定された。現在アブ・シンベル神殿は世界遺産に登録されている。他にも「カルナック神殿」や「ラムセス2世葬祭殿(ラムセウム)」等多数の建造物を残している。
[編集] 今なお生けるファラオ
ラムセス2世は日本でも知名度の高いファラオであり、21世紀に入って彼を主人公としたアニメ映画も製作された。『世界ふしぎ発見!』にも取り上げられたことがある。
ラムセス2世のミイラは1881年に発見され、現在はカイロのエジプト考古学博物館に収められている。身長は183㎝もあり、当時はおろか現代に於いてもかなりの長身であることがわかる(古代エジプトの成人男性の平均身長は160~165㎝であった)。また、調査によって生前関節炎を患っていたものの、死亡推定年齢が88~92歳とかなりの長命でもあったことも突き止められている(古代エジプト人の平均寿命は35~40歳であった)。生前のラムセス2世の健康状態が高齢に達してなお、極めて優れていたかも理解できる。また、ミイラに残っている頭髪から髪の色は赤茶であると推定されている。
20世紀後半になって、ラムセス2世のミイラは劣化防止措置を受けるためフランスへ出国し、儀杖兵が捧げ銃を行う国王への礼をもって迎えられた(ミイラの皮膚組織にカビの1種が発生したため、調査を兼ねてカビの除去を行う必要があった)。この時には生きているエジプト人の扱いでパスポートも支給され、職業の欄には「ファラオ」と記入されていたというエピソード(すなわち、エジプト・フランス双方とも「現役のエジプトのファラオが病院に入院するために出国・来訪した」ということで行動した)も伝わっており、偉大なるファラオへに寄せるエジプト人の敬意の深さがうかがえる。
[編集] 関連項目
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