ヤン・ラマース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
F1での経歴 | |
国籍 | オランダ |
生年月日 | {{{生年月日}}} |
没年月日 | {{{没年月日}}} |
車番 | {{{車番}}} |
所属チーム | シャドウ, ATS エンサイン, セオドール, マーチ |
活動時期 | 1979 - 1982 , 1992 |
過去の所属チーム | {{{過去の所属チーム}}} |
出走回数 | 23 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1979年アルゼンチンGP |
初勝利 | - |
{{{今年度}}}年順位 | {{{今年度順位}}} |
(記録は{{{最新レース}}}終了時) | |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1992年オーストラリアGP |
ヨハネス・ラマース(Johannes Lammers, 1956年6月2日 - )は、オランダ出身のレーシングドライバー。1988年のル・マン24時間レース覇者。
一般に、ヤン・ラマース(Jan Lammers)と表記される。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] キャリア初期
17歳でオランダ・ツーリングカー選手権にデビューし、初年度にチャンピオンを獲得。その後、一旦フォーミュラレースに転向し、FF1600やドイツF3、ヨーロッパF3に参戦。ヨーロッパF3では、1978年にタイトルを獲得した。
[編集] F1
1979年、シャドウと契約しF1デビュー。しかしマシンの戦闘力は低く、最高位は9位に留まり、3度の予選落ちも喫した。
1980年のATSでも状況は変わらず、開幕戦アルゼンチンGPから3戦連続予選落ちを喫していたが、第4戦アメリカ西GPで突如予選4位に入る。注目を浴びることとなったが、決勝ではスタート直後にトラブルでリタイヤ。その後の2戦も決勝に進出するが、完走はならなかった。第7戦フランスGPよりエンサインに移籍するが、8戦中5戦予選落ちという結果に終わった(最高位:12位)。
1981年は序盤4戦にのみATSから参戦するが、完走は第3戦アルゼンチンGPの12位のみであり、残りは予選落ち2回、リタイヤ1回という成績だった。1982年は中盤にセオドールから参戦するも、6戦中5度予選落ち、完走無しという成績で、ほどなく解雇された。
[編集] F1後の活躍
セオドール解雇後は、スポーツカーレースにおいては、ヨーロッパルノー5ターボで1983年・1984年に2年連続でタイトルを獲得。世界スポーツプロトタイプカー選手権にも参戦し、1988年にはル・マン24時間レースにおいて、ジャガー・XJR-9を駆りアンディ・ウォレス、ジョニー・ダンフリーズとのトリオで優勝。ル・マンにおける、久々のイギリス車優勝の立役者となった。またこの年のIMSAでは、デイトナ24時間レースで優勝している。その後も世界スポーツプロトタイプカー選手権に参戦したが、1992年は全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権にも参戦していた。
フォーミュラレースにおいては、CART、国際F3000、全日本F3000等に参戦。日本において多くのレースに参戦したことで、日本人にとってお馴染みの外国人ドライバーの1人となった。
[編集] F1復帰
1992年の第15戦日本GP・最終戦オーストラリアGPにて、唐突にF1復帰。契約の切れたカール・ヴェンドリンガーに代わり、小口スポンサーを持ち込んでのものだった(最高位:12位)。この縁から、そのままマーチと1993年シーズンの契約を結んだ。
正ドライバーとして、久々に開幕から戦う予定だったが、チームは資金難であり、開幕までに十分な資金を集めることが出来なかった。開幕戦南アフリカGPにおいて、相棒となる予定だったジャン=マルク・グーノンとキャラミ・サーキットを訪れたものの、チームは姿を見せなかった。
チームは結局そのまま消滅し、ラマースも以後F1とは縁がない。
[編集] その後
その後もスポーツカーレース、フォーミュラ共に活動を見せたが、主にスポーツカーレースで実績を残している。
近年は、日本の童夢と縁が深く、2001年からは自らがオーナーを務めるチーム「Racing for Holland」より、童夢・S101でFIAスポーツカー選手権(FIA SCC)やル・マン24時間レースに参戦。2002年・2003年には、FIA SCCのシリーズチャンピオンに輝いている。
2005年から開催されているA1グランプリの2005年-2006年シーズンのみオランダチームの監督をしていた。