シャドウ (F1)
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参戦年度 | 1973 - 1980 |
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出走回数 | 112 |
コンストラクターズタイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 67.5 |
表彰台(3位以内)回数 | 7 |
ポールポジション | 3 |
ファステストラップ | 2 |
F1デビュー戦 | 1973年南アフリカGP |
初勝利 | 1977年オーストリアGP |
最終勝利 | 1977年オーストリアGP |
最終戦 | 1980年フランスGP |
シャドウ(Shadow Racing Cars)は、1973年から1980年までF1に参戦したアメリカのコンストラクター。
目次 |
[編集] 活動歴
[編集] チーム創設
オーナーのドン・ニコルズは1960年代に日本に滞在し、日米レース界のパイプ役となり、富士スピードウェイ建設計画のアドバイザーを務めた人物である[1](元CIAエージェントだったという説もある)。1968年、カリフォルニアでアドバンスト・ヴィーグル・システムズ(Advance Vehicle Systems)を設立し、「シャドウ」の名で斬新なレーシングカーを製造。北米のCan-AmシリーズやF5000に参戦し、1974年にはジョージ・フォルマーがCan-Amシリーズのチャンピオンとなった。
[編集] F1参戦
1973年にはイギリス支部を設け、石油会社UOP(Universal Oil Products)の支援を得てF1に進出する。BRMから移籍したデザイナーのトニー・サウスゲイトがフォード・コスワース・DFVエンジン搭載マシン「DN1」を開発。フォルマーとジャッキー・オリバーの2台体制のほか、グラハム・ヒルが設立したエンバシー・レーシングへも1台を供給した。初戦南アフリカGPで6位入賞し、スペインGP(フォルマー)とカナダGP(オリバー)で3位表彰台を獲得するなど新興チームとしては好成績を収めた。
ドン・ニコルズのイニシャルがつけられたマシン、DNシリーズはフロント部分にラジエーターを配置した「チセル(鑿)ノーズ」が特徴であり、チーム名の「影」を象徴するような漆黒に塗られたマシンも個性的であった。
1974年はマクラーレンで前年2度優勝したピーター・レブソンをエースドライバーとして迎え入れたが、第3戦南アフリカGP直前のテスト中、サスペンショントラブルでレブソンが事故死するという悲劇に見舞われる。チームメイトのヨーロッパF2選手権チャンピオンジャン=ピエール・ジャリエはモナコGPで3位を獲得。トークンから途中加入したトム・プライスも才能の片鱗をみせてチームを救った。
1975年はジャリエが開幕2戦連続ポールポジションを獲得して周囲を驚かせた。しかし、アルゼンチンGPでは決勝レース前に故障し、ポールポジショングリッドに着けないという失態を演じた。プライスもイギリスGPでポールポジションを獲得するなど、予選ではたびたび上位進出するものの信頼性に乏しく、目ぼしい結果はオーストリアGPの決勝3位(プライス)のみであった。シーズン終盤の2戦ではマトラのV12エンジンを搭載した改良型マシンを投入した。
1976年はUOPのスポンサー撤退で資金難となる。プライスが3位1回を含む全得点を稼いだが、ジャリエは無得点に終わった。
[編集] 悲劇と初勝利
1977年、因縁の南アフリカGPで再び悲劇が起こる。この年から加入したレンツォ・ゾルジがトラブルでコース脇に停車。消火しようとコースを横切ったマーシャルが後続のプライスのマシンに撥ねられ死亡。プライスもマーシャルの消火器がヘルメットを直撃して死亡した(事故の詳細はトム・プライス#事故死を参照)。
プライスの後任として加入したアラン・ジョーンズはしぶとく入賞を重ね、第12戦オーストリアGPでは予選14位から快走し、自身とチームの初優勝を達成した。コンストラクターズポイントも23点とチーム創設以来の最高成績を収めた。
しかしその年の終わり、アラン・リース、ジャッキー・オリバー、トニー・サウスゲイトらチームの主要メンバーが離脱し、新コンストラクターアロウズを設立した。シーズン途中にデビューし、後にF1出場256戦という大記録を残すリカルド・パトレーゼもアロウズへ移籍した。
[編集] 分裂から消滅へ
1978年はベテランのクレイ・レガッツォーニとハンス=ヨアヒム・シュトゥックが加入し、サウスゲイトが残した「DN9」で走ったものの下位に沈み、決勝5位が最高成績だった。
サウスゲイトは「DN9」の図面をもとにアロウズのマシン「FA1」を製造したが、シャドウはこれをデザインの盗用であると訴え、法廷闘争に持ちこみ勝訴した(FA1は使用禁止)。この一件はマシンデザインの知的財産権を巡り1990年代後半から論争となる「コピーマシン問題」の先例となった。
1979年は若手のヤン・ラマースとエリオ・デ・アンジェリスを起用したが、予選落ちを喫することもあった。最終戦で4位に入賞したアンジェリスは名門ロータスに引き抜かれた。
1980年は香港の大富豪テディ・イップがスポンサーとなり、ステファン・ヨハンソン、デビッド・ケネディ、ジェフ・リース(後に日本のレース界で活躍する)らが出走したが予選落ちの常連となった。第5戦ベルギーGP後にイップがチームを買収。第7戦フランスGPをもってシャドウの名での活動を終え、マシンや施設などはセオドール(第二期)に引き継がれた。