マンダン
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マンダン族 (Mandan) とは北米大陸のインディアン部族である。19世紀半ばの天然痘による壊滅前までは、「人間」という意味の「ヌマカキ族」と呼ばれた。
アメリカノースダコタ州の平原地帯最北部に定住する。ヒダーツァ族とアリカラ族と共に「ミズーリ三大提携部族」MHAを結成している。
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[編集] 歴史
かつてのマンダン族の生活は、厳しい冬場に備えてトウモロコシを中心とした農作物を栽培し、男は平原でバッファロー狩りをするというものだった。トウモロコシとバッファローはマンダン族の精神であり、トウモロコシやバッファローの宗教的なダンスの儀式を行う。マンダン族の住処は夏はティピィ、冬は木材を円形に組んだ土屋根の、丸いアース・ロッジと呼ばれる巨大な住居だった。
現在は下記のダム建設で農業が制限され、狩猟も禁止され、徹底した白人同化政策によって伝統的な生活のほとんどが失われている。部族の言葉の話者も、一人の長老のみであり、部族語の再導入が図られている。現在、サカカウェア湖畔にインディアン・カジノを持ち、貴重な収入源となっている。
元々はミズーリ川より東に定住していた。徐々にミズーリ川の西北に移動し、18世紀の半ば頃にスー族の勢力下のノースダコタ中心の川口の近くに定住し、9つの村を結成した。後に敵対するアシニボイン族やスー族の攻撃、天然痘などに圧迫され、マンダン族はアリカラ族の村の反対、ミズーリ川の上流へ移動、生き残りはナイフ川対岸の2つの村に併合した。
[編集] 信仰と儀式
「かつて世界は水没していた」という神話を持ち、水の精霊を中心にした自然復活の儀式、「オーキーパ」で知られる。これは平原部族の「サンダンス」の元祖である。20世紀になると、オーキーパは野蛮な儀式として白人に徹底的に弾圧され、近年に至るまで開かれることがなかった。
[編集] 白人との接触
1738年モントリオール出身のフランス人の商人、ピエール・ラ・ベランドリンがマンダン族の村へ訪問。フランス人の毛皮商人達は周辺で交易所を建設した。
1804年、ルイスとクラークの探検隊がマンダン族の村を訪問。そこで彼らはサカガウィアと会う。
[編集] 天然痘による壊滅
1837年には天然痘およびコレラの大流行によって壊滅状態となった。定住生活であったため、伝染病の蔓延にひとたまりも無かったのである。 ヒダーツァ族が1845年に移ったナイフ川の地域からマンダン砦のベルトールの交易所にかけ、少数のマンダン族も合流した。
1870年に白人たちはノースダコタに、マンダン族、ヒダーツァ族、アリカラ族にフォートベルトホールド保留地を用意した。
[編集] ダム建設
この保留地の大半は、1953年に、条約に違反したギャリソン・ダム建設のために水底に沈められた。以下はそのときの部族議長のコメントである。かれは号泣しながらこう述べた。
「部族会議のメンバーは、心を重くしてこの条約に署名する。今や、未来は悪しき物となった。1851年に結んだララミー条約、三つの部族の結びつきは、切れ切れに引き裂かれ、そして住みやすく、農業の出来る保留地のすべての良い土地は、これで沈んでしまうのだ!」
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