ホートン・スミス
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ホートン・スミス(Horton Smith, 1908年5月22日 - 1963年10月15日)は、アメリカ・ミズーリ州スプリングフィールド出身のプロゴルファーである。1934年に創設されたマスターズゴルフトーナメントで第1回大会の優勝者になり、2年後の1936年にも優勝した。他にもPGAツアーで通算28勝、世界各国の国際試合で7勝を挙げ、プロゴルファーとして通算「37勝」を記録した名選手である。ゴルフクラブの一種である「サンドウェッジ」を競技大会で最初に使用した選手だと言われている。身長190cmほどの長身でありながら、体重は70kgほどで、細身の体格の選手だった。
ホートン・スミスは12歳からゴルフを始め、故郷のミズーリ州スプリングフィールドにある「スプリングフィールド・ゴルフクラブ」でアシスタント・プロとして技術を磨いた。プロゴルファーとしてトーナメントに参戦し始めた時期、スミスは自動車や電車、ボートなどを駆使して各地を旅行したことから「ミズーリの放浪者」(Missouri Rover)というニックネームがついたという。1929年、スミスは21歳の時にPGAツアーで年間22試合に出場し、そのうち優勝8度、2位6度という成績を挙げた。彼のベスト・シーズンであったこの年、10月に世界大恐慌が勃発する。スミスはボビー・ジョーンズなどと並んで、アメリカの「大恐慌時代」を生きたゴルファーのひとりであった。
1934年、ボビー・ジョーンズとクリフォード・ロバーツの提唱により「オーガスタ・ナショナル招待選手権」(Augusta National Invitation Tournament)という新しいトーナメントが創設され、この大会のために「オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ」(パー72)がジョージア州オーガスタに建設された。第1回大会は3月22日から3月25日まで行われ、ホートン・スミスは最終ラウンドでクレイグ・ウッド(1901年 - 1968年)を1打差で振り切り、4 アンダーパー(-4, 284ストローク)のスコアで優勝を飾った。第2回マスターズではジーン・サラゼン(1902年 - 1999年)が優勝し、スミスは19位タイに終わったが、1936年の第3回大会で2年ぶり2度目の優勝を果たしている。スミスの他のゴルフメジャー大会成績は、全米オープンで1930年・1940年の3位、全英オープンで1930年の3位があった。
選手引退後のスミスはアメリカPGAツアーで競技委員を務め、1952年から1954年までツアーの会長にも就いた。スミスは生涯を通じて喫煙も飲酒もせず、節度のある私生活を送ったが、比較的早い年齢で健康を害した。1963年10月15日に55歳で逝去した。没後27年たった1990年に世界ゴルフ殿堂入りを果たしている。