ヘンリク・グレツキ
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ヘンリク・ミコワイ・グレツキ(Henryk Mikołaj Górecki,1933年12月6日- )は、ポーランドの現代音楽の作曲家。
目次 |
[編集] 略歴
グレツキはポーランド南部に位置するチェルニツァ(Czernica)に生まれる。カトヴィツェに移る20歳になるまで、彼は勤勉な勉強家ではなかった。その後、パリで研鑚を積む間に、当時ポーランド政府の弾圧により聴くことの出来なかったアントン・ヴェーベルンやオリヴィエ・メシアン、カールハインツ・シュトックハウゼンの作品と出会う。やがてグレツキはカトヴィツェで音楽教授となるが、1970年代後期にヨハネ・パウロ2世のカトヴィツェ市訪問をポーランド政府が許可しなかったため、それに抗議して教授職を辞任する。
[編集] 作風
[編集] 第1期
デビュー時の彼の作品はピエール・ブーレーズを始めとするミュジックセリエルの作曲家らと同じく前衛的な様式に基づくものであり、ルイジ・ノーノが「INCONTRI」と題した作品を発表すると「SCONTRI」という題名の曲で切って返すほどの挑発的な存在であった。第一次ポーランド楽派の最優等生として評価され、ミヒャエル・ギーレンや甲斐説宗に絶賛された。Genesis IIIで見られる音によるアナキーズムへの挑戦、交響曲第一番のグロテスクなモノディー、Scontriの鉱物的なクラスターの響きは、正に当時の前衛そのものであった。
セリーを用いた作曲に於いても、断定的な沈黙が多く見られる。「単音と沈黙」の対比から徐々に「瞬間的な音響と沈黙」へと傾斜し、作風が変わってしまった第2期や第3期でもこの傾向は顕著である。1960年代前半からノイズ音響を解禁し、単なる半音階クラスターや複雑な和声よりも大きな効果が得られている。なおかつリズム的なソルフェージュは前衛世代よりも容易に行える為、多くの模倣者がグレツキの後に続いた。グレツキの音が誰にでも使えるようになった時、彼は突如として宗教性を打ち出して第2期へ歩んでゆく。
[編集] 第2期
この時期以降は調性的側面への傾倒や巨大なモノフォニーなどを追求し、結果的に理解されやすい作風となったとも言える。「交響曲第2番」以降のグレツキの音楽は、16世紀以前のカノン技法から現代にいたる音楽様式を参照しているものの、ペンタトニックの試験的仕様の後に、単純な三和音やオクターブを用いる傾向がある。彼の音楽はholy minimalismと称され、しばしばミニマリズム(minimalism)と比較される。同じく度々比較されるアルヴォ・ペルトの様に、グレツキの作品に宗教的信仰を反映するものが多いのは、カトリック教徒ゆえの忠誠心からきている。
交響曲第2番「コペルニクス」や「MUZYCA IV」では平易なメロディーラインに巨大な音響を付随させるといった策で、前衛以後の潮流に乗ろうとするが、すでにいくつかの瞬間で単純な和音の反復など宗教性を徐々に帯び始める。病弱であった彼は、現代音楽の語法のアップデートそのものに欠落があると信じるようになり、1970年代後半についに全音階主義に立ち返った。
第2期を締めくくった交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」は全作品中とりわけ有名である。この作品はオーケストラとソプラノ独唱のために書かれ、3楽章形式を採用している。第1楽章では15世紀に書かれた哀歌、第2楽章ではザコパネに在るゲシュタポ収容所の独房の壁で発見された言葉、そして第3楽章では民謡からそれぞれ歌詞が使われている。延長されたカノンが延々と弦楽器群によって歌われる第1楽章(全演奏時間の約半分を占める)を持つこの作品は、全体にわたりスローテンポに徹し、同時に極めて沈思的である。
この作品は1976年に作曲され、翌年ドイツのSWRで初演された。1993年にノンサッチ社から発売されたデイヴィッド・ジンマン指揮、ロンドン・シンフォニエッタ、ドーン・アップショウ(ソプラノ)による録音はベストセラーとなった。これはベストセラーになることを当初全く予期しておらず、単なるグレツキのロンドン・デビュー以上のものではなかったと伝えられている。実際はとある放送の番組内でテーマ音楽としてこの曲の第2楽章を取り上げ繰り返し放送したことが、イギリスの人口に膾炙した原因である。間もなく、翌1994年にナクソスからもアントニー・ヴィト指揮によるCDが発売された。その後もこの作品のCD録音は増え続けている。この音楽は1980年代初期に有名になる前に嶋津武仁がすでに日本に持ち込み、ボグスワフ・シェッフェルの著作の日本語訳と平行して、スコアが手に入らなかったので音だけでアナリーゼが試みられた。
[編集] 第3期
1990年代は幸か不幸かこの作品のヒットによってholy minimalismの潮流に乗る作曲家が次々と紹介され、グレツキはその生みの親のように認識されるようになった。グレツキはこの作品のおかげで世界中で講演し、多くの音楽関係者は当然のごとく「交響曲第3番」の単純明快さを攻撃した。しかしグレツキの、第一次ポーランド楽派へ最も貢献した、実り多い第1期の作品を無視しつづけていたのは、一体誰だったのであろうか? この事情はグレツキも承知の上であり、その上で交響曲第3番が書かれている事を知る音楽関係者は稀少である。
クロノス・クァルテットとのコラボレーションで知られる「弦楽四重奏曲第2番」あたりからは、死を暗示する沈黙の使用が目立ってくるが、この沈黙もブロック構造の中に取り込まれているので、特に厭世的には聞こえない。この時期から彼は体調不良を訴えることが増え、創作数が激減する。現在も特に目立った趣旨の変更はなく、同路線での作曲活動を細々と続けている。
[編集] エピソード
1978年にはミコワイ・グレツキと名づけた息子が生まれ、現在はミコワイも作曲家として世界中で活躍中である。「若いピアニストの為のコンチェルト」は日本ではヒット作となり、ピアノ業界で重宝されている。
グレツキ門下の最優等生であったアンジェイ・クシャノフスキを1993年に亡くした後は、創作ペースが極めて落ち込むようになった。彼の聖なる響きは、自身の不遇に満ちた生涯抜きで語ることは出来ない。
[編集] 総論
言及が少ないが、初期は聴衆には避けられたが作曲家からは賞賛を受け、後期は作曲家からは避けられたが聴衆からは賞賛を受けた不遇の経歴である。初期から聴衆の無理解に苦しめられていなければ、このような作風で成熟することは無かった。[要出典]優れた作曲家がこのように葬られることは、20世紀に入って後、ボー・ニルソンや、ニコロ・カスティリョーニらと同様に、西洋音楽史上初めて起きた事象である。またクシシュトフ・ペンデレツキも似た受け入れられ方だったが決して不遇の人生ではなかった。