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プリンツ・オイゲン - Wikipedia

プリンツ・オイゲン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サヴォイア=カリニャーノ公子オイゲン・フランツPrinz Eugen Franz von Savoyen-Carignan, 1663年10月16日 - 1736年4月24日)は、プリンツ・オイゲンの名で知られるオーストリア軍人サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれる。

日本で一般に知られるオイゲン・フランツの名はドイツ語名であり、イタリア語名はエウジェーニオ・フランチェスコ(Principe Eugenio Francesco di Savoia)、フランス語名はウジェーヌ・フランソワ(Prince Eugène François de Savoye)という。日本では、プリンツはしばしばと訳されることからオイゲン公と呼ばれることもある。この項目内では便宜上、主に活躍した地域に基づいて呼称をオイゲンに統一する。

[編集] 生涯

オイゲンは、サヴォイア家の分家筋にあたるフランス貴族、ソワソン伯ウジェーヌ・モーリスオランプ・マンシニの子としてパリで生まれた。祖父はサヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世の末子でサヴォイア公家の分家(後にイタリア王家となる)カリニャーノ家を興したトンマーゾ・フランチェスコで、父のソワソン伯はその次男である。また一説に、実の父はルイ14世であったとも言われる。

長男ではなかったため伯爵を継げなかったオイゲンは軍人となる道を選んだが、ルイ14世のフランス軍では用いられるところがなかったので、1683年にオーストリアに渡ってフランス王の宿敵であるハプスブルク家レオポルト1世に仕え、オーストリア軍の将校となった。この時代には軍人が所属を移動することは珍しいことではないが、オイゲンはその生涯を出身国フランスとの戦いに費やす。

オーストリアにおけるオイゲンの軍歴は、1683年の第二次ウィーン包囲に始まったオスマン帝国との戦争から始まった。長期に渡って続いたこの戦争においてオイゲンはハンガリー戦線で活躍し、1699年カルロヴィッツ条約でオーストリアがハンガリー全土を獲得し戦争が終結するまでの間に、オーストリア軍の有力な将軍のひとりとなっていた。

1701年、フランスのブルボン家が断絶したスペイン・ハプスブルク家の王位を継承しようとしたことにオーストリア・ハプスブルク家が反対し、スペインミラノ公国に派兵したことでスペイン継承戦争が始まると、オイゲンは北イタリアに入ったオーストリア軍を率いてフランス軍を破った。1702年イングランドオランダが反フランス側に立ってオーストリアと同盟して参戦すると、オイゲンはライン川方面の戦線でフランス軍と戦い、1704年にはイングランドのマールバラ公の軍とともにバイエルンに駐留するフランス軍をブレンハイムの戦いで破った。この戦いに続く戦闘で、オイゲンの加わる連合軍はライン川流域のフランス軍を壊滅させ、戦争が反フランス同盟側の有利に進む大きな契機となった。

その後、マールバラとオイゲンはフランス領への侵攻を図ったが、同盟側の結束の緩みから断念せざるを得なくなり、オイゲンのオーストリア軍はマールバラのイングランド軍と別れ、フランス軍が進出していた北イタリアに移動した。1706年、オイゲンは北イタリアのトリノを包囲していたフランス軍を破り、イタリア戦線からフランス軍を駆逐した。1708年にはフランス軍が反抗を開始したため、再びマールバラと共同作戦を行ってフランドルに進軍し、アウデナールデの戦いに勝利してリールを攻略した。しかし、翌1709年のマルプラーケの戦いで勝利を収めたものの甚大な被害を受け、オイゲン自身も負傷した。マルプラーケの戦いの後、反フランス同盟のフランスに対する攻勢は鈍り、1713年になってオーストリアは、ルイ14世の孫であるフェリペ5世にフランス王位継承権を放棄させた上でスペイン王位継承権を認める条件で、和平を結んだ。

オイゲンは、スペイン継承戦争の結果オーストリア領となった南ネーデルラント(現ベルギールクセンブルク)の総督となり、後にはイタリアにおけるオーストリア領の副王とされた。1716年にオーストリア・トルコ戦争が起こるとオイゲンはオーストリア軍を率いて再びオスマン帝国軍と戦い、ベオグラードを奪って全ハンガリーの割譲を認めさせた1718年パサロヴィツ条約締結を実現させた。

その後も生涯をオーストリア軍の将軍として生きた。かつての功績により政治的にも大きな発言力を有していた。カール6世の皇女マリア・テレジアの結婚相手にプロイセン王太子フリードリヒ(後の「大王」)を推挙したが、王女の結婚相手は皇帝も好意を寄せ、皇女と相思相愛のロレーヌ公フランツ・シュテファンとなった。オイゲン公は2人の結婚式には見え透いた口実で欠席したが、もしもフリードリヒとの結婚が実現していれば歴史が大きく違っていたと言われる。

1736年にウィーンで没し、その遺骸はシュテファン大聖堂に埋葬された。オイゲンは相続人となる子を設けなかったので、死後にその莫大な財産は、オイゲンがウィーンの夏の別邸として足かけ10年をかけて建設し、1723年に完成したベルヴェデーレ宮殿とともに、ハプスブルク家の所有となった。

[編集] 関連項目

先代:
イギリス・オランダ軍による占領
オーストリア領ネーデルラント総督
1716 - 1724
次代:
マリア・エリーザベト女大公

[編集] 外部リンク


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