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ピアノ協奏曲第3番 (チャイコフスキー) - Wikipedia

ピアノ協奏曲第3番 (チャイコフスキー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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ピョートル・チャイコフスキーの《ピアノ協奏曲 第3番露語Фортепианное концерт No.3)》は、作曲者が難産した楽曲の一つであり、4楽章の交響曲として産み落とされたが、後に破棄され、3楽章の協奏曲に生まれ変わっている。チャイコフスキーはこの作品と格闘している間、最後まで際限ない困難に悩まされ、これが手に負えない作品であることを思い知らされた。チャイコフスキーが完成させることのできた「アレグロ・ブリランテ」楽章のみが、死後に遺作として、作品75という番号つきで出版された。本作の複雑きわまる成立史は、《交響曲 第5番》の大成功を受けて、チャイコフスキーが自分自身を表現しようとした悪戦苦闘を映し出している。結局その試みが叶ったのは、「悲愴」交響曲こと《交響曲 第6番》においてであった。

目次

[編集] 「人生」交響曲 変ホ長調

チャイコフスキーはかつてコンスタンチン大公に次のように述べている。

「私は文字通りに、働かずには生きられないのです。ある仕事が片付いてしまえば(略)すぐに新しい仕事に取り掛かろうとする願望が沸くのです。(略)このような状況では、新しい仕事が真の創造的な必然性によって生じるとは限りません[1]。」

1889年11月までに、チャイコフスキーの創作衝動はいよいよ激しくなろうとしていた。《交響曲 第5番》が完成してから1年が経っており、それとは別の曲から見ても、8ヵ月が経っていた。チャイコフスキーはコンスタンチン大公に、何か漠然とした標題による大規模な交響曲で自分の創作活動の有終の美を飾りたいと長いこと切望していたのだと打ち明けている。その曲がどんなものになるかについて事前の発想をいくつか書き留めたのは、1年半のアメリカ演奏旅行から帰国する前だった。とはいえ、より重要なのは、チャイコフスキーが大まかに構想した標題なのである。

「この交響曲の(略)究極の本質は、人生である。第1楽章は、仕事に対する衝動や情熱、それに自信。短くしなければならない(挫折の結果としての最後の死)。第2楽章は愛、第3楽章は落胆、第4楽章は死(やはり短く)[2]。」

それからの数ヶ月間、チャイコフスキーは《くるみ割り人形》と《イオランタ》を作曲しながら、《交響曲「人生」変ホ長調》の細かい楽曲素材を書き続けたが、いざ体系的な創作に取り掛かってみると、これらの多くや以前の楽想は破棄されたのである。使われるべき標題にしても然りであった。しかしながらその他の素材は作品の素案とされた。進捗具合は迅速で、1890年6月8日までに第1楽章と終楽章がスケッチされた。チャイコフスキーは7月と8月にかけて続きの作曲を片付けたいと望んでいたが、残りの部分の作曲は、10月までもたついた。それでも11月4日には全曲のスケッチが完成し、それから3日がかりで第1楽章が再現部までオーケストレーションを実施された。

チャイコフスキーはすでにモスクワの2月の慈善演奏会で、新作交響曲の初演を申し出ていた。だが、今一度の中断を余儀なくされてから、改めてスケッチを見直してみると、全く興醒めしてしまったのである。甥のボブことヴラディーミル・ダヴィドフに宛てた1892年12月16日付けの書簡において、「こいつはただ何かを作曲するためだけに書かれた代物だ。面白いところも共感を呼ぶようなところもまるでない」とこぼしている。「こいつは破棄して、無かったことにする……きっと。」と付け加えてもいるものの、「この主題はまだ私の想像力を羽ばたかせる可能性がある」とも言っている[3]。ただし、どのくらいの可能性があるのかは、チャイコフスキー自身はっきりと分かってはいなかったのかもしれない。

すぐさまダヴィドフは返事を寄越した。非常に力強い言い回しにチャイコフスキーは驚いた。1892年12月19日付の手紙で、ダヴィドフはこう書いたのである。「僕も残念に思います。おじさんがその交響曲を、自分には醜く思えたというので、スパルタの子供たちがしたように崖から投げ捨ててしまったとはね。それでもその交響曲は、5番までの交響曲と同じく、きっと天才の仕事だったでしょうにね[4]。」

チャイコフスキーが変ホ長調の交響曲を断念したのは、交響曲にはどうしても必要だと感じていた内省を欠いていて、人格を交えていないと悟ったからだった。つまり、人生哲学や、創り手個人の感情の表現が見当たらないということである。チャイコフスキーはこの交響曲を作り続ける気力を殺がれ、「無意味な和音と、何も表現しないリズムのまとまり」と呼んだ[5]。それでもダヴィドフの発言に鼓舞されて、スケッチをすべて破棄してしまう代わりに、再利用しようと思い立った[6]。「変ホ長調の交響曲」の音楽は、チャイコフスキー個人の判断基準では、情緒的に何も言い表していなかったのだとしても、だからといってそれが無価値というわけではなかったのである。主楽想はきわめて魅力的であり、巧みに展開され、外向的である。このような主題が耳をそばだてるように扱うことができる作曲家の手にかかれば、とどのつまり結果は、音楽学者が分析するに値するものとなるのである[7]

より重要なのは、構想した標題に基づいて新作交響曲を書き上げるという考えをチャイコフスキーが放棄していなかったことである。変ホ長調の交響曲は、骨折り損の草臥れ儲けに終わったが、その後に《「悲愴」交響曲》となったものを着想する上では影響力があったのだ。

破棄した交響曲のスケッチをピアノ協奏曲に転用するという考えをチャイコフスキーが初めて言及したのは、1893年の4月になってからである[8]。チャイコフスキーは7月5日にピアノ協奏曲の作曲に取り掛かり、それから8日後に第1楽章を完成させた。すぐに仕事は終わったものの、チャイコフスキーはそれが満足できる仕事ではないと分かっていた。自筆譜の上に、「お蔭様でお仕舞い!」と書き込んだが、秋になるまでそのオーケストレーションに着手しなかったからである[9]

[編集] 交響曲から協奏曲へ

6月にチャイコフスキーはロンドンで自作の《交響曲 第4番》を指揮した。その地で、5年前にパリで出逢ったピアニストのルイ・ディエメとばったり再会した。ロンドンの演奏会の後でケンブリッジを訪れ、ケンブリッジ大学より名誉博士号を授与されている(同じ席上で、カミーユ・サン=サーンスマックス・ブルッフも表彰された)。その後一時期ロンドンに戻り、そこからパリに直行した。そしてパリからスイスオーストリア経由でロシアに戻ったのである。まずはコンラーディ家の領地グラキノに滞在して新作の協奏曲を書き上げ、それからやっとクリンの自宅に向けて帰路に就いたのであった。

《ピアノ協奏曲 第3番》でディエメが意識されていたことからすると、破棄した交響曲の一部をピアノ協奏曲に仕立て直そうというチャイコフスキーの決心は、ディエメと旧交を温めたことによって強まったのかもしれない。ディエメは当時のフランスのピアノ界の最高峰のひとりであり、フランス国内では「音階とトリル奏法の王者[10]」として知られていた。ディエメの門人は、多くはフランスの音楽史上で傑物として名を残しており、たとえばヴァンサン・ダンディアルフレッド・コルトーロベール・カサドシュがいる[11]

チャイコフスキーにとってより重要だったのは、ディエメはその経歴を通じて、多くのフランス音楽を初演してきたことであり、たとえばセザール・フランクの《交響的変奏曲》もディエメが初演者だった[12]。しかもディエメは、1888年にパリで行われた室内楽の音楽祭で、チャイコフスキーの《幻想的協奏曲 ト長調作品56を2台ピアノ用版で取り上げたのである(第2ピアノはチャイコフスキー自身が弾いた)[13]。チャイコフスキーの新作に興味を持つだけでなく、それを攻略することもできるような芸術家がいるとすれば、それがディエメにほかならなかった。過去に《ピアノ協奏曲 第1番》や《ヴァイオリン協奏曲》をめぐってニコライ・ルービンシュタインレオポルト・アウアーと不和になったことを思えば、チャイコフスキーは無条件に面白がってもらえる可能性をディエメから気軽に引き出すことなどできなかったであろう。

チャイコフスキーは《「悲愴」交響曲》を仕上げると、再びピアノ協奏曲に向き直るが、再び疑念の波に襲われるばかりであった。ピアニストのアレクサンドル・ジロティに、「音楽については、そこそこ捗っている。だが、あまり気持ちのいい作品ではない」と告げている。1893年10月6日には、ポーランドのピアニストで作曲家のシギスムント・ストヨフスキに宛てて、「(先日)書き送ったように、新作の交響曲は出来上がりました。今や私は、われらが親愛なるディエメ氏のための新作協奏曲の総譜づくりに取り掛かっています。彼に逢った時には、お伝え下さい。私はその仕事を続けていて、気が付いたらこの協奏曲は、うんざりするほど恐るべき長さになってしまったと。それゆえ私は、一つの楽章だけを残して、それだけで一つの完全な協奏曲をまとめ上げることに決めました。後半の2楽章が使い物にならなくなったのですから、あとの仕事は、曲にもっと手を入れるだけです[14]。」その同日(10月6日)にチェリストのユリアン・ポプロフスキーが、チャイコフスキーのクリンの自宅に訪ねて来て、チャイコフスキーが自筆譜に目を通していたのを知った[15]

単一楽章の「演奏会用アレグロ(仏語Allegro de concert)」ないしは「コンツェルトシュテュック(独語Concertstück)」の選択は、フランクの《交響的変奏曲》や交響詩《ジン》、フォーレの《バラード》といった近代フランスのピアノと管弦楽のための作品群に相和する。チャイコフスキーが楽曲の大胆なカットを思い付いたのは、これが初めてでもなかった。チャイコフスキーの伝記作家で音楽学者のジョン・ウォーラックは、チャイコフスキーがパリでディエメと上演した《幻想的協奏曲》が、当初は2楽章の作品として構想されたことに、注意するように説いている。 Tchaikovsky had vascillated between leaving both movements of that work stand as they were and publishing only the "Quasi Rondo" first movement. Though he let both movements alone, he also provided, as an appendix to the published score of the Fantasia, a 12-page coda "of rather facetious brilliance" that he instructed to be played only if the second movement were to be left out.[16].


セルゲイ・タネーエフ
セルゲイ・タネーエフ

Tchaikovsky had for some time relied on his former student and friend Sergei Taneyev for technical advice on pianistic matters. Once he finished scoring the Allegro brilliante in October 1893, Tchaikovsky asked Taneyev to look it over. However, to music writer and composer Leoned Sabaneyev, who studied composition with Taneyev as a child and met Tchaikovsky through him, Tchaikovsky seemed "'afraid' of Taneyev in some ways. I think he was unnerved by the overt frankness with which Taneyev reacted to Tchaikovsky's works: Taneyev believed that one must indicate precisely what one finds to be 'faults,' while strong points would make themselves evident. He was hardly fully justified in his conviction: composers are a nervous lot and they are often particularly dissatisfied with themselves. Tchaikovsky was just such a person: he worried himself almost sick over each work and often tried even to destroy them[17] ... "


Sabaneyev also remembered when Tchaikovsky came to Taneyev with the Fifth Symphony. Taneyev started played through part of the manuscript at the piano. "With characteristic pedantry Taneyev began showing Tchaikovsky what he considered to be faults, thereby sending Tchaikovsky into even greater despair. Tchaikovsky grabbed the music and wrote across the page with a red pencil: 'Awful muck.' Still not satisfied with this punishment, he tore the sheet of music in half and threw it on the floor. Then he ran out of the room. Despondently Taneyev picked up the music and told me: 'Pyotr Ilyich takes everything to heart. After all, he himself asked me to give my opinion[18]...."

《ピアノ協奏曲 第3番》に関しては、タネーエフは独奏パートに典型的な超絶技巧が欠けていると思った。チャイコフスキーはジロティに、タネーエフも協奏曲については自分と同じく評価が低いと告げている。 But Tchaikovsky's brother Modeste assured Ziloti after that meeting that thie composer would not follow through on his threat. While his brother in no way questioned Taneyev's verdict, Modeste said the composer had already promised the comcerto to Dièmer and wanted to show the score to him, if for no other reason than to prove he had not defaulted on his promise.


Less than a month later, Tchaikovsky was dead.

作曲家の死から数ヵ月すると、モデスト・チャイコフスキーはタネーエフに、未完成のまま残された兄の自筆譜を完成してくれるように頼んでいる。タネーエフは、1894年の6月末にこの任務に着手する。同年9月に、ユルゲンソン社は、「アレグロ・ブリランテ」楽章を《ピアノ協奏曲 第3番》として出版することに同意し、翌月には印刷の準備が整った。

チャイコフスキーの没後1周年の記念演奏会において、タネーエフのピアノで《ピアノ協奏曲 第3番》を初演することが企画された。この初演は、総譜とパート譜が時間に間に合わなかったために延期された。1894年12月18日になってもタネーエフは出版譜を受け取っていない始末だったという[19]。結局タネーエフは、《ピアノ協奏曲 第3番》の初演を、1895年1月7日サンクトペテルブルクにおいて、エドゥアルド・ナープラヴニークの指揮で行なった。その後タネーエフは日記に、「演奏は良かったがあまり成功しなかった。1度きりしか(舞台に)呼び戻されなかった」と書き入れた[20]

ユルゲンソン社は《第3番》の総譜のほかに、1894年11月に2台ピアノ版を、1895年3月にはパート譜を出版した。

[編集] 問題点?

According to Tchaikovsky biographer and musicologist David Brown, one specific and glaring defect Taneyev pointed out to the composer in the completed first movement "was an inevitable consequence of transcribing a largely completed orchestral movement into one for soloist and orchestra.[21]" Brown maintains Tchaikovsky apparently made no attempt to rewrite the musical substance of what he had composed. He mainly converted what was originally an orchestral texture into a piano solo, drew some idea out of the texture for the soloist to present, or else overlayed what was already there with piano figuration. By essentially rearranging what he had written already, instead of going totally back to the drawing board and rethinking his musical ideas afresh, what came from Tchaikovsky's efforts was likely to turn out "ungrateful" -- the word Tchaikovsky himself used in mentioning the piece to Ziloti[22].


Brown goes further: "But the problem lay deeper than this. The Fifth Symphony had been a determined reconciliation of what Tchaikovsky saw as the Western symphonic pattern with his own most characteristic invention, and in many regards it was a remarkable success. Most important at all – where the requirements of those interests clashed irreconcilably, his musical creativity had taken precedence. If, when he set about the E flat symphony purposefully at the end of May 1892, he still intended to follow the programme already mapped out, he quickly abandoned it, for it is inconceivable that a design so conventional was articulating anything other than a purely musical experience -- as Tchaikovsky himself certainly perceived when he came to scrutinize his finished sketches. If anything, the E flat symphony attempted to take the experiment of the Fifth Symphony further, hazarding a more total submission to the Western tradition, and despite Semyon Bogatirev’s conscious attempt to revitalize Tchaikovsky’s sketches, the piece remains faceless, given not the slightest hint of the blazing originality and shattering expressive force of the symphony yet to come. Thus it was not only that the Third Piano Concerto was handicapped by the nature of its earlier incarnation; that incarnation was less than first rate in materials [23]."


However -- and this is a big "however" -- Tchaikovsky had already realized the impersonal nature of the music. This was why he had decided first to discard it, then recast it into a format that would hopefully play to the music's strengths instead of to its weaknesses. Morse's comment on "shattering expressive force" is a telling one. Was what made the Third Piano Concerto "less than first rate" the fact that it was not as overwhelming expressively as the Fifth or Pathetique symphonies, or, for that matter, the First Piano Concerto? Although that point is debatable, it also precludes why Tchaikovsky was rewriting the E flat symphony into a piano concerto in the first place.


"[G]iven not the hint of blazing originality" is also debatable, but potentially easier to defend. Because of how Tchaikovsky chose to rework the symphony, he ended up with a work that, for all his efforts, could be argued to lack freshness. Listening to the First Piano Concerto, then the Third, could confirm the argument. It could also be a logical reason Tchaikovsky was uncomfortable with the concerto off-and-on, though this had been the composer's behavior pattern with several of his major works. But the fact the Third Piano Concerto may not be as inventive as the First should not mean the Third is totally without merit.


On the other side of the argument on the Third Concerto's worthiness, Tchaikovsky biographer and musicologist John Warrack argues, "[T]here is little sign of adaption from purely orchestral material. The piano figuration is natural, and though there are passages where this fills hardly more than a decorative role while the orchestra pursues broad melodies that could well stand on their own, this is not out of Tchaikovsky's style for the piano concertos[24]."


Could it be argued, though, that Warrack contradicts himself? He mentions noticing "little sign of adaption," yet while he concedes "passages ... [fulfilling] hardly more than a decorative role," there are more of these passages in the Third Concerto than in the other two. While this may not be a bad thing in itself, it could be argued that leaving the orhcestra to prusue "broad melodies that could well stand on their own" instead of better balancing the statement and exposition of musical materials plays into Brown's stand of the concerto "being handicapped by the nature of its previous incarnation."


The composer might even have counted on Diémer to help decide the final form the concerto would take -- whether to leave it as one movement or three -- or whether the piece would make it to the concert hall. Tchaikovsky had invariably sought comments and suggestions for his concertos and concerto-like works from their intended dedicatees. The commentary Tchaikovsky received, and his reaction, may have been mixed, but his pattern of seeking such advice was consistent. Whatever information Diémer might have shared, as well as any further input from Taneyev, could have potentially reshaped or modified the piece considerably, perhaps for the better.


One undebatable point that Brown and other detractors of the Third Concerto seem to evade is that the work cannot be judged as a totally finished composition. Tchaikovsky had not sent the piece to Jurgenson for publication; and even if it appeared complete enough to Taneyev to warrant publication, there is no telling how Tchaikovsky would have changed or elaborated on the music had he lived longer.


Though the Third Concerto is a considerably more complete shape than the Mahler Tenth Symphony or the Bartok Viola Concerto, it really belongs in their same category of musical what-ifs and considered accordingly.

[編集] 楽曲構成

The bassoon opens with the main theme. The soloist follows immediately and later introduces the second subject group, in G major. The exposition follows Tchaikovsky’s familiar three-theme design, and there is some spiciness in the invention which follows the main theme. But, Morse claims, the music quickly stagnates after the tutti reaffirmation of the opening theme and tonic It does not, as had the Second Piano Concerto, proceed to reinforce a tonal grip, only to be broken by the shock of the second subject’s being introduced in a distant key. Instead Tchaikovsky "seems to lose his nerve" and move the music through a major third to the new tonal region (E flat to G – exactly that of the Second Concerto, though in reverse). This new theme, gentle and attractive, is heigened in pathos when the oboe and bassoon counterpoint the piano with unresolved dissonance. Attractive, too, is its sprightly partner in this second subject. As for the sudden re-entry of an E-flat chord, this and what follows brings to the codetta something of that contrast of harmonic color which, Morse says, earlier had been so limply underplayed[25].


The development starts well. Tchaikovsky selects the lively idea which had filled out the first subject’s center, heightening its piquancy by extending it over a whole-tone bass. Also admirable is the later augmentation of a portion of the first subject to produce a full, cantabile passage before the cadenza. Only now, at a focal point in the musical drama, does Tchaikovsky break away from the symphony. The massive cadenzas Tchaikovsky had provided for the Second Piano Concerto and the Concert Fantasia substituted for the entire development and were thus indespensible musically. But these two cadenzas had fruitfully explored further possibilities the musical materials offered, adding a generous supply of effective, if not always elegant virtuosity. The cadenza in the Third Concerto deals almost exclusively, and considerably less creatively, on the first theme of the second subject[26].


There is one small saving touch in store. The recapitulation neatly modifies the first subject, taking a new direction from bar three, then extends this fresh idea. The point of this emerges later, after the dual second subject has been re-run. The piano picks up the new extension in the coda, where it becomes a counterpoint for the widely striding portion of theme which it had earlier displaced[27].


Tchaikovsky might have tailored the the solo part, with its myriad cascades of runs and scales throughout the work and the prominence of trills in the cadenza, especially for Diémer. One of Diémer's students, Lazare Lévy, who himself would become an influence on the French musical scene, wrote about his teacher, "The astonishing precision of his playing, his legendary trills, the sobriety of his style, made him the excellent pianist we all admired[28]." With comments such as this in mind, it could be hard for an informed listener to hear a soloist play the Third Concerto without having its intended dedicate come to mind.

アンダンテとフィナーレに続く)

[編集] 参考文献

  • Brown, David, Tchaikovsky: The Final Years (New York: W. W. Norton & Company, 1992)
  • Hanson, Lawrence and Elisabeth, Tchaikovsky: The Man Behind the Music (New York: Dodd, Mead & Company)
  • Poznansky, Alexander, Tchaikovsky's Last Days (Oxford: Oxford University Press, 1996)
  • Poznansky, Alexander Tchaikovsky: The Quest for the Inner Man (New York: Schirmer Books, 1991),
  • Poznansky, Alexander. Tchaikovsky Through Others' Eyes (Bloomington: Indiana University Press, 1999)
  • Schonberg, Harold C., The Great Pianists
  • Warrack, John, Tchaikovsky Symphonies and Concertos (Seattle: University of Washington Press, 1969)

[編集] 脚注

  1. ^ Alexander Pozansky, Tchaikovsky: The Quest for the Inner Man (New York: Schirmer Books, 1991), 552
  2. ^ David Brown, Tchaikovsky: The Final Years (New York: W. W. Norton & Company, 1992), 388
  3. ^ Brown, 388
  4. ^ Alexander Poznansky, Tchaikovsky: The Quest for the Inner Man (New York: Schirmer Books, 1991), 553
  5. ^ Lawrence and Elisabeth Hanson, Tchaikovsky: The Man Behind the Music(New York: Dodd, Mead & Company), 356
  6. ^ Poznansky, 553
  7. ^ Hanson and Hanson, 356
  8. ^ Brown, 387-388.
  9. ^ Warrack, Tchaikovsky Symphonies and Concertos, 47
  10. ^ Harold C. Schoenberg, The Great Pianists, 287.
  11. ^ Schoenberg, 287.
  12. ^ Schoenberg, 287
  13. ^ http://www.usc.edu/dept/polish_music/news/apr01.html#stojowski
  14. ^ Alexander Poznansky, Tchaikovsky's Last Days (Oxford: Oxford Universuty Press, 2002), 31-32
  15. ^ Poznansky, Tchaikovsky's Last Days, 32
  16. ^ John Warrack, Tchaikovsky Symphonies and Concertos (Seattle: University of Washington Press, 1969), 48
  17. ^ Alexander Poznansky, Tchaikovsky Through Others' Eyes (Russian Music Series) (Indiana University Press, 1999), 215
  18. ^ Pozansky, Tchaikovsky Through Others' Eyes, 216
  19. ^ Letter from Sergei Taneev to Modest Tchaikovsky, 18/30 December 1894 - Klin House-Museum Archive
  20. ^ Diary entry of Sergei Taneev, 7/19 January 1893 - Klin House-Museum Archive
  21. ^ Brown, 389.
  22. ^ Brown, 389.
  23. ^ Morse, 389-390
  24. ^ John Warrack, Tchaikovsky Symphonies and Concertos (Seattle: University of Washington Press, 1969), 46-47
  25. ^ Morse, 390
  26. ^ Morse, 390-391
  27. ^ Morse, 391
  28. ^ Schoenberg, 287

[編集] 外部リンク


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