パークナム事件
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パークナム事件(the Paknam incident)は1893年7月13日に、フランスが当時タイ(シャム)の領土であった現在のラオスの領有を迫った事件。当時日本では仏暹事件とよんだ。また、欧米諸国ではシャム危機(the Siam crisis)とよんだ。ちなみにパークナムとは河口という意味である。後述するように河口で紛争が起きたためこのように呼ばれる。
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[編集] 経緯
19世紀後半、インドシナへの進出を画策していたフランスは、同時期にビルマ側からタイ北部地方へ進出を試みていたイギリスに遅れを取らぬように、ベトナム領から当時のタイ領ラオスへの進出を試みた。1886年5月7日にフランスは鉱山業・林業における優先権を確立するためルアンパバーンに領事館を設置、当時ラオスを領有していたタイとの間でルアンパバーン条約を締結した。翌年、西双版納(シップソーンパンナー)においてホー族の反乱が起きたため、フランスはルアンパバーン領内に兵を進め、1888年にシップソーンチュタイ(中心地はディエンビエンフー)を掌握した。この後フランスは、「ルアンパバーン地域の宗主権はベトナムにあり、ベトナム領を有する仏領インドシナがルアンパバーンの宗主権を持っている」という立場を理由にして、タイ軍の駆逐を図ったため、タイ軍との衝突が起こり、インドシナに軍事的緊張が走った。
1892年、オーギュスト・パヴィがルアンパバーン領事に任命されると、以前からタイ政府が提案していた交渉による国境画定案を拒否し、タイ軍にルアンパバーン領からの撤退を求めた。これにより、タイ政府およびフランスとの間で紛争が勃発した。ラオス中部のカムムアン県の知事であったプラ・ヨートムアンクワーンがフランス軍と衝突、結果フランス人将校が戦死した。これを機にパークナム危機が勃発することになる。
プラ・ヨートムアンクワーンは結局フランス兵に捕らえられ、国境画定案を無視したことのあるフランスは「平和交渉時に将校を殺した」という理由で彼に有罪判決を出し、投獄した。このため、「タイは国際常識を無視した」という見方がフランス国内で広がり、タイへの武力行使を行おうとする世論が高まった。
[編集] 事件
1893年7月13日夕方、フランス海軍は2隻の戦艦でチャオプラヤー川の河口から上流へ進入しようとした。フランス海軍はこのときタイの官警から警告を受けたが無視した。現在のサムットプラーカーン(河口にあるため俗に、パークナム(河口)と呼ばれる)へまで進むと、タイ軍は備え付けの大砲と軍艦で攻撃したが、近代的軍備のフランス海軍戦艦には歯が立たなかった。一方、軍艦2隻は10時頃までにバンコク、チャオプラヤー川東岸にあるフランス大使館へ着くとタイ政府に「メコン川東岸のフランスへの割譲」を求めた。これは国家存続を揺るがす大きな問題とタイ政府は認識した。当時のタイの君主であったラーマ5世(チュラーロンコーン)は割譲を拒み、賠償金で済ませようとして、フランスとインドシナ問題において対立関係にあったイギリスから賠償金を借りようと試みたが失敗。結局、メコン川西岸全域を割譲する事になったが、ラーマ5世はこれを「死刑を待つ死刑囚の様な悲しみ」と表現し寝込んでしまった。一方、バンコク都民はこの異常事態において混乱を極め、フランス軍の発砲を恐れて逃げ回った。
[編集] その後
1893年10月、フランスは平和条約の締結を迫った。この条約においては、
- メコン川東岸のラオス各王国の宗主権の完全放棄
- メコン川の中州すべての割譲
- メコン川西岸25キロ地域の中立地帯化(武装解除)
- カンボジアのバッタンバン州、シエムリアップ州での武装解除
- フランス領からタイへの輸入時における関税自主権の放棄
- 保護民を含むフランス人の自由貿易を容認し、タイの司法権の管轄外とすること
を認めさせた。一方でフランスはチャンタブリー県、トラート県の港の占領を行っている。またフランス大使館はこの後、仏領インドシナのベトナム人、ラオス人、カンボジア人のみでなく、タイ国民(特に華僑)にまでワイロで保護民の地位を与えたために、タイの治安は大きく乱れることになった。
これに頭を痛めたタイ政府は1904年に新たな条約を結んだ。内容は以下の通りである。
これにより目下の問題は解決し、1905年1月22日にフランス海軍はチャンタブリー県から撤退したが、トラート県に移動するのみに留まった。
[編集] 影響
この事件の後敏感に反応したのは、インドシナ進出を狙っていたイギリスであった。フランスが破竹の勢いでタイに迫り、イギリスの領域を侵しかねない状況であったからである。1896年、イギリス・フランス両国は英仏宣言を発表した。この宣言では、タイはイギリス・フランス両国の緩衝地帯として残すことが定められた。また、1904年には英仏協商が成立。イギリスはチャオプラヤー川東岸を、フランスはチャオプラヤー川の西岸を勢力の限界と定めた。
一方、床に臥したラーマ5世は、賠償金を貸してくれなかったイギリス・武力行使を行ったフランスに不信感を募らせ、今までのような両国との関係を重視していた外交政策を転換し、ロシア、ドイツ、日本などとの外交に重点を置いて外交多角化を図った。