ディーン・ラスク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デイヴィッド・ディーン・ラスク(David Dean Rusk, 1909年2月9日 - 1994年12月20日)はアメリカ合衆国の政治家。ケネディ及びジョンソン政権で国務長官(1961年 - 1969年)を務めた。国務長官の在任期間はコーデル・ハルに次いで長い。
[編集] 経歴
ラスクは、ジョージア州チェロキー郡で生まれた(これを記念し、同郡の中学校に彼の名が付けられている)。彼はアトランタで教育を受け、1925年に卒業してからは弁護士として2年間働いた。ノースカロライナ州のDavidson大学を経て、ラスクは1931年に英国のセント・ジョンズ大学へ、ローズ奨学生として留学した。帰国後は1934年から1940年までミルズ大学(カリフォルニア州オークランド)で教鞭をとった後、カリフォルニア大学バークレー校で法律を研究した。
大学で予備役将校訓練過程を受講していたラスクは1940年に現役復帰し、陸軍大尉に任官された。真珠湾攻撃によりアメリカが第二次世界大戦に参加すると、ニューデリーに本部を置き中国、ビルマ、インド戦線を担当するスティルウェル将軍下の参謀として活躍し、勲功章と樫葉章を受け大佐に昇進した。戦争の終結が近づくと、戦後の政治問題を検討する為に国防省内に設けられた部署に抜擢された。朝鮮半島の分断線を北緯38度と決定したのはラスクであるといわれている。その後マーシャルに引き抜かれる形で1945年2月に国務省へ移り、国連局で国連の設立に携わった。1949年に国務次官代理、1950年に極東担当国務次官補となり、朝鮮戦争に関するアメリカの決定に影響力を及ぼした。また同時期に、戦後の日本海の日本領土(竹島を含む)に関して韓国にラスク書簡を発行している。
ラスクは1950年にロックフェラー財団の理事、さらに1952年には国務省を辞して理事長の職に就いた。1960年の大統領選でケネディが勝利するとその年の12月12日に国務長官に指名された。さらに外交問題評議会(CFR)とビルダーバーグ会議の正式メンバーにもなった。国務長官としての彼は一貫して、共産主義との対抗に軍事行動をためらわないタカ派で、キューバ危機では当初、即時の軍事攻撃を主張したが、程なく外交交渉へと転じている。ベトナム戦争に当たってはアメリカの行動への弁明ゆえに、しばしば反戦主義者から攻撃の的となった。
引退後は、1970年から1984年までジョージア州アセンズのジョージア大学で国際法を教えた。
[編集] 関連項目
|
|