ディオン・サンダース
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ディオン・サンダース (Deion Luwynn Sanders , 1967年8月9日- ) はアメリカ合衆国フロリダ州フォートマイヤーズ出身のアメリカン・フットボール(主にコーナーバック、リターナー)及び野球選手(外野手、左投げ左打ち)。NFLとMLBの同時出場を果たしたマルチアスリート。現在はスポーツ・コメンテーターを務めるほか、アリーナ・フットボールのオースティン・ラングラーズのオーナーを務める。 ニックネームは「ネオン・ディオン」(Neon Deion)又は「プライム・タイム」(Prime Time)。
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[編集] 人物・来歴
北フォートマイヤーズ高ではアメフト・野球に加えバスケットでも活躍し、3つのスポーツでフロリダ州の賞を受賞している。卒業時に野球のカンザスシティ・ロイヤルズからドラフト指名を受けるが、この時には入団を拒否している。
フロリダ州立大に進学し、こちらではアメフト・野球の他に陸上競技(短距離)選手としても試合に出場した経験を持つ。 アメフトでは1987年、1988年の2年連続全米大学選抜チームに選出され、1988年にはジム・ソープ賞(1986年に創設された優秀なコーナーバックに与えられる賞、原則として各年度で全米1名)を受賞した。
1989年5月31日にヤンキースでメジャー昇格。この際にはすぐにマイナーに降格。この年6月のNFLドラフトでアトランタ・ファルコンズから一巡目(全米5位)で指名されるが、入団交渉は難航し、その間に再びヤンキースに昇格し、まずまずの活躍を見せるが、8月末にファルコンズとの契約が合意に達し、すぐにキャンプに参加。開幕戦でタッチダウンを記録し、「同じ週にメジャーリーグでホームランとNFLでタッチダウンを記録した最初の選手」(現時点で唯一の選手)となった。
その後も、NFL、MLBの両スポーツで現役選手を続けた。9月には両方のシーズンが重なるが、原則としてNFL優先であった。(もう一人の兼業選手ボー・ジャクソンはMLB優先であった。)
また、野球では1991年、1992年とワールドシリーズに出場(いずれも敗退)し、アメフトでは1995年、1996年にスーパーボウルに出場(いずれも勝利)し、「ワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場した最初の選手」(現時点で唯一の選手)にもなっている。
派手なファッションを好み、言動も派手で、チーム批判やチームメイトとの論争も多く、チーム内ではトラブルメーカーの一面があり、それも影響して両方のスポーツでチームを転々とすることともなる。
以下、MLBでは1997年まで(途中引退時期あり)現役を務め、NFLに専念するが2000年で(一時)引退すると、翌2001年には一年だけMLBに現役復帰。そして、NFLでも2005年一シーズンだけ現役に復帰した。 (以下、それぞれの種目での詳細は各項目を参照)
1991年、MLBではアトランタ・ブレーブスに移籍し、故障者が続出した中でプレイオフ・ワールドシリーズを戦うチーム事情にあってヘリコプターをチャーターしての同時二刀流に挑戦した。
後述のように、アメフトでは一流選手であったが、野球選手としては打力不足であった。
[編集] アメフト選手として
先述のように1989年のドラフトでアトランタ・ファルコンズから一巡目(全米5位)で指名され入団。コーナーバック(以下CB)、キックオフリターナー(KR)、パントリターナー(PR)、時折ワイドレシーバー(WB)として活躍した。1992年(2月)に初のプロボウル出場を果たす(※)。1992年にはキックオフ・リターンで1,067ヤード、平均26.7ヤード、2リターンタッチダウンを記録(いずれもリーグ1位)し、1993年にはキャリア最高の7インターセプトを記録。1993年、1994年にもプロボウルに出場している。ただし、本拠地ジョージア・ドームに不満を漏らすなど、野球だけでなくアメフトでも問題児ともなった。
※プロボウルはスーパーボウルの1週間後にシーズンの締めくくりとして開催されるため、1992年のプロボウルは1991年の成績に基づいて選出されたものである。以下もプロボウルの選出年度に関しては開催年度で表記するが、いずれもその前年の活躍に応じて選出されている。
ただし、実力の方は間違いなく、敵QB(クォーターバック)がサンダースの居るサイドにはパスを投げにくくなり、インターセプトの数はそれほど伸びなくなったが、1992年のプロボウルでは、ジム・ケリー(バッファロー・ビルズ)が全く反対サイドに投じたパスを見事にインターセプトしている。(ただし、捕ろうとしたWRはスペシャルチームとして選出されていたスティーブ・タスカーであったが。) 背番号「21」は、アメフトにおいてはディオン・サンダースの背番号というイメージが強かった(野球でも一時背番号21をつけていた)。
1994年にはサンフランシスコ・フォーティーナイナーズに移籍し、前年まで在籍していたファルコンズ戦で、ジョージア・ドームでインターセプト・タッチダウンを記録するなど活躍し、チームをスーパーボール制覇に導く活躍をあげ、自身も最優秀守備選手に選出された。しかし、WRジェリー・ライスとの確執もあり、1年限りで移籍することとなる。なお、この年にはプロボウルの出場を辞退している。
数チームによる争奪戦の末、1995年9月9日に、ダラス・カウボーイズと7年総額3500万ドル、プラス契約金約1300万ドルで契約。この時点でNFLの守備選手として最高給選手となった。この時点でアメフト専念を発表(のち撤回)。 後年、オークランド・レイダーズの方がサラリーは高かったが、親友であるWRマイケル・アービンが居ること、スーパーボウル制覇を狙えるチームという理由でカウボーイズを選んだと語っている。 この1995年シーズンにも自身2度目のスーパーボウル(開催は1996年)制覇を成し遂げた。スーパーボウルでは WRとしても47ヤードのレシーブを記録し、(現時点で)史上唯一の「スーパーボウルでパスレシーブとパスインターセプトの両方を記録した選手」となっている。 カウボーイズには結局5シーズン在籍し、全てのシーズンでプロボウル出場を果たしたが、先述の1996年を最後にスーパーボウル出場はならなかった。自身も悩み、1997年には未遂に終わったが自殺を試みている。
カウボーイズとの契約を2年残して2000年にワシントン・レッドスキンズに移籍し、1年限りで引退し、野球に専念した(こちらは2001年限りで引退)。 しかし、2004年にボルチモア・レイブンズと年俸150万ドルで契約し現役復帰。本来の背番号「21」ではなく、当時の年齢「37」を背番号に選ぶ。10月24日のバッファロー・ビルズ戦では自身9度目のインターセプト・タッチダウンを記録したほか、5インターセプトを記録するが、結局1年限りで再度の引退となった。
1990年代のオール・ディケイド・チームにも選出されている。
[編集] メジャーリーガーとして
外野手として、先述のように1989年にヤンキースでメジャーに昇格。当初、背番号18を与えられて感想を聞かれた際に、「俺を満足させる数字は200万だ」(年俸200万ドルの意)と発言し、周囲をあきれさせた。チーム内でも折り合いは悪く、ファルコンズとの契約の際には、「今後ヤンキースに戻る可能性は低い」と言われていたが、翌1990年もヤンキースでプレイする。 アメフトでその能力を遺憾なく発揮していた通り、野球でも守備と足は一流であったが、打力不足もあり、またその派手な言動がチーム内外で顰蹙を買うことも多く、1991年にはアトランタ・ブレーブスに移籍。
この年にはファルコンズの試合(マイアミ・ドルフィンズ戦)に出場した後ヘリで移動してピッツバーグ・パイレーツとのナ・リーグチャンピオンシップシリーズに出場する「同時二刀流」に挑戦。チームはワールドシリーズ出場を果たしミネソタ・ツインズに敗れはしたものも、後年のスーパーボウル出場と合わせて、「ワールドシリーズとスーパーボウルに出場した最初の選手」という称号を得た(現時点でも唯一の選手である)。 1992年には開幕から打撃好調で、前半戦はレギュラーに定着。特に序盤戦活躍し、97試合で打率.304、盗塁26を記録。三塁打14はこの年メジャー全体で1位であった。この年もチームはワールドシリーズ出場を果たす。今度はトロント・ブルージェイズに敗れたが、8安打を放って打率.533を記録。
1994年途中にはシンシナティ・レッズに移籍するが、この年には38盗塁を記録。翌1995年途中にサンフランシスコ・ジャイアンツに再び移籍し、この年も28盗塁を記録するが、9月にNFLカウボーイズと大型契約(先述)を結んだ時点で「NFL専念」を宣言し、一時MLBからは離れる。
しかし前言を撤回して1997年には再びレッズと契約。この年には115試合に出場して、ほぼレギュラーとしての起用で、打率こそ.273に終わったが、自己最多の56盗塁(ナ・リーグ2位、盗塁王はトニー・ウォマック=当時パイレーツで60盗塁)を記録。この時点で30歳であった。 その後再び野球から離れたが、2001年に再度レッズと契約し、32試合に出場したのを最後にメジャーからは退いている。
野球に専念して打力を磨いていれば、年間100盗塁も可能だったかもしれない。
[編集] NFLでの成績・獲得タイトル等
14シーズンの通算成績
- タッチダウン22回
- (インターセプトリターン9回、パントリターン6回、キックオフリターン3回、レシーブ3回、ファンブルリカバー1回)…守備+リターンの通算19タッチダウンはNFL史上最多。
- インターセプト52回(1,331ヤード獲得、平均25.1ヤード)
- ファンブルリターン4回(15ヤード獲得)
- キックオフリターン155回(3,523ヤード獲得)
- パントリターン212回(2,199ヤード獲得)
- パスレシーブ60回(784ヤード獲得)
獲得タイトル他
- NFL最優秀守備選手1回(1994年)
- プロボウル選出8回(1992年、1993年、1994年、1996年、1997年、1998年、1999年、2000年)
- 1990年代オール・ディケイド・チーム
[編集] メジャーリーガーとしての年度別及び通算成績
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁 打 |
三塁 打 |
本塁 打 |
打点 | 塁打 | 四死 球 |
三振 | 盗塁 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989年 | NYY | 14 | 47 | 7 | 11 | 2 | 0 | 2 | 7 | 19 | 3 | 8 | 1 | .234 |
1990年 | NYY | 57 | 133 | 24 | 21 | 2 | 2 | 3 | 9 | 36 | 13 | 27 | 8 | .158 |
1991年 | ATL | 54 | 110 | 16 | 21 | 1 | 2 | 4 | 13 | 38 | 12 | 23 | 11 | .191 |
1992年 | ATL | 97 | 303 | 54 | 92 | 6 | 14 | 8 | 28 | 150 | 18 | 52 | 26 | .304 |
1993年 | ATL | 95 | 272 | 42 | 75 | 18 | 6 | 6 | 28 | 123 | 16 | 42 | 19 | .276 |
1994年 | ATL→ CIN |
92 | 375 | 58 | 106 | 17 | 4 | 4 | 28 | 143 | 32 | 63 | 38 | .283 |
1995年 | CIN→ SF |
85 | 343 | 48 | 92 | 11 | 8 | 6 | 28 | 137 | 27 | 60 | 24 | .268 |
1997年 | CIN | 115 | 465 | 53 | 127 | 13 | 7 | 5 | 23 | 169 | 34 | 67 | 56 | .273 |
2001年 | CIN | 32 | 75 | 6 | 13 | 2 | 0 | 1 | 4 | 18 | 4 | 10 | 3 | .173 |
通算 | 9年 | 641 | 2123 | 308 | 558 | 72 | 43 | 39 | 168 | 833 | 159 | 352 | 186 | .263 |
[編集] エピソード
- プレーも言動も派手であり、ファッションも普段から派手なスーツと宝石を身につけていることで知られた(ニックネームであるネオン・ディオン、プライムタイムはそこに由来している)。
- 1994年12月26日にはラップのシングル、アルバムを発売。また、MCハマーのプロモーションビデオにも出演している。
- 現役時代にはナイキ、ペプシ・コーラ、バーガーキング、ピザハット、アメリカン・エクスプレス等多数のCMに出演した。そのナイキからはシグネチャーモデルのシューズが発売されていたが、シューズ名はナイキのシグネチャーとしては珍しく名前やニックネームではなく、NFLとMLBの『両刀使い』から取った「ダイヤモンドターフ(ダイヤモンドは野球を、ターフ(芝)はアメフトを表し、シンボルも野球のホームベースとアメフトのゴールポストを組み合わせたもの)」と名付けられていた。
- 1995年のカウボーイズとの契約金は、実際には1299万9999ドル99セントで、1300万ドルに1セント足りない金額であった。
- 1997年の自殺未遂の後、キリスト再降臨者になっている。
- 大学とNFLの両方でブレット・ファーヴのパスをインターセプトした唯一の選手である。
[編集] 関連項目
- ボー・ジャクソン:MLBとNFLの兼業選手。
[編集] 外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube