チャーティズム
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チャーティズム (Chartism) は、19世紀イギリスに起こった社会・政治改革を要求する労働者たちの運動。その名は、1838年に運動の指導者たちが起草した人民憲章People's Charterに由来する。
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[編集] 契機
チャーティズムの前史といえるものは、1815年から1832年にかけての議会改革運動、選挙権拡大運動である。この期間では運動は農業経営者と労働者、工業都市の中産階級であった。問題提起をしたのはホイッグ党であったが、指導権は各地方の富裕な中産階級に移り、著名な指導者はウィリアム・コベット、ヘンリー・ハントなどの農業家であった。
1832年の選挙法改正で新興都市に議席が与えられ、小売店主の線まで選挙権が与えられるようになったが、大部分の労働者は政治参加から閉め出されたままだった。1830年から活動が顕著になった急進主義団体は、中産階級の指導から独立して改革運動を継続する。1829年に成立した急進主義的議会改革協会と1830年に成立した全国労働者階級同盟が、チャーティズムの直接の先駆者となった。しかしこれらの団体の運動は1834年までに、失敗に終わった。
[編集] 指導者とグループ
1838年までに形成されたチャーティズムの主力は次の3つのグループと指導者に分けることができる。
- 中産階級の急進派であり、主として議会民主主義と通貨改革を追求するグループ。銀行家のトーマス・アトウッドが指導者。
- ロンドン労働者協会とその影響下にあるグループ。古い町の比較的良い賃金をもらっている熟練職人から商店主などの下層中産階級を基盤とする。指導者は議会改革運動の初期に現れた、ウィリアム・ラヴェット、ヘンリー・ヘザリントン、ブロンテーア・オブライエンなどである。
- 北部・中部の繊維工業地帯で、主として新救貧法反対闘争に参加し飢餓に瀕していた下層大衆を基盤とする。有力な扇動家ファーガス・オコーナーが指導者。
[編集] 経過
チャーティスト運動は自然と2つの政策系列に分かれていった。法律の範囲内でゆっくりと組織を作ることを目指した「道徳」派と、陰謀と秘密結社による暴動を目指す「実力」派である。1836年には労働運動が再び活発となり、南はロンドンからバーミンガム、ニューキャッスル、リーズ、グラスゴーが運動の中心地となった。南部では道徳派が優勢であり、有能な著述家や雄弁家が多かった。北部では実力派が強く運動全体でも決断力に富んだ人々がそろっていた。
ラヴェットをはじめとするロンドンの指導者たちが口火を切り、独立の労働者政党をつくるための集会を1836年6月6日に開いた。ロンドン労働者の連盟が創立され、規約が採択された。連盟の執行部は声明を出し「イギリスには21才以上の男子が602万にいるうち、84万人にしか選挙権が与えられていない」ことを指摘した。1837年5月31日と6月7日に労働者連盟代表と急進派議員が協議をし、人民憲章を起草し、議会に提出することを誓約した。ラヴェットが草案を書き、J・A・ローバックとフランシス・プレイスが手を入れたものを合同委員会が可決し1838年5月8日「人民憲章 - 下院における大ブリテンおよびアイルランドの人々の正しい代表を規定する法案」が発表された。憲章の6箇条は
- 成年男子普通選挙
- 秘密投票
- 毎年選ばれる一年任期の議会
- 議員に対する財産資格の廃止
- 議員への歳費支給
- 十年ごとの国勢調査により調整される平等選挙区
という内容であった。
1817年の通信条例のために全国組織がつくれない中、1838年を通じて大きな集会が全国いたるところで開かれ、1839年2月4日のチャーティスト大会は国民請願を議会に提出することを決定。7月の議会でこの請願が否決されたことへの抗議として、チャーティスト大会は「国民休日」つまりゼネストを計画したが、激論の末に撤回した。道徳派は大会への統制力を失い、地方のチャーティスト団体が主導権を握る。反穀物条例についての方策は反対なく定められた。しかし将来チャーチストが採るべき手段として、総罷業と武装が提起されたが、反対意見が鋭く対立し、脱退・分裂・指導者の禁固があいついだため、9月14日に大会は解散した。
チャーティスト指導者の投獄は特にウェールズで労働者たちの感情を激化させ、11月4日に呉服商ジョン・フロストを首領として、約千人の民衆が武装してニュー・ポート市内を行進して入獄者の釈放を要求したが、通報を受けていた軍隊と警察により銃撃され、10名のチャーティストが死亡する。政府により武力反乱と見なされたこの事件以後、1840年4月までチャーティストの大量逮捕・裁判が行われた。1842年12月までにオコンナーが支配する「全国憲章協会(N.C.A)」が325万以上の署名を集めるなど、追随者は多かったが指導者内部での対立は、運動を分裂させ敗北させた。
[編集] 参考文献
- T・カーライル『チャーティズム』1840年
- M・ベーア『イギリス社会主義史』
- G・D・H・コール『イギリス労働運動史』1948年