ダリル・スペンサー
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ダリル・スペンサー(Daryl Dean Spencer, 1929年7月13日 - )は、阪急ブレーブスに在籍した元プロ野球選手(内野手)である。アメリカ合衆国カンザス州生まれ。右投げ右打ち。守備位置は二塁手、後に一塁手。背番号は25。
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[編集] 来歴・人物
ニューヨーク(1958年よりサンフランシスコ)・ジャイアンツ、ロサンゼルス・ドジャース、セントルイス・カージナルス、シンシナティ・レッズと4球団を渡り歩き、1964年に阪急に入団。非常に研究熱心な性格で、すぐに日本の野球に順応した。打っては36本塁打、守っては190cmを超える大柄な選手(ニックネームが「赤鬼」だった)でありながら二塁を守り、その豪快かつ緻密なプレーは阪急だけでなく日本球界全体に様々な影響をもたらした。
長池徳士とともに阪急の主砲として活躍し、1967年に初優勝に貢献。1969年に退団したが、1971年に選手兼コーチとして復帰した。1972年に再び退団するが、その時自らの研究成果をまとめた「スペンサー・メモ」を遺し、阪急に「考える野球」をもたらした。これが1970年代の阪急黄金時代に大きく貢献したと言われる。
[編集] エピソード
- 2年目の1965年7月16日にサイクルヒットを達成した。しかしこの頃の日本にはサイクルヒットという概念がなく、試合後のインタビューでその事に触れる記者はいなかった。これを不思議に思ったスペンサーは「今日自分は、シングルヒットに二塁打、三塁打、本塁打を打った。珍しい記録だと思わないか?これをサイクルヒットと言うんだ」と語り、これをきっかけに記録が洗いなおされた。その後、サイクルヒット達成者には連盟表彰が行われるようになり、様々な節目の記録と同様に記録達成者として公式に名前が残るようになった。ちなみにサイクルヒットは和製英語で、英語では hit for the cycle という。
- 1965年には打撃好調で、当時パシフィック・リーグ最強打者として君臨していた野村克也(南海ホークス)と激しい三冠王争いをしていた。このとき野村に三冠王を取らせようというような雰囲気があったらしく、スペンサーと対戦する投手はことごとく四球攻撃をした。特に8月14日から8月15日にかけては東京オリオンズの投手陣により8打席連続で歩かされた。8月15日のダブルヘッダー第1試合の先発は「精密機械」の異名をとる大投手小山正明であったが、スペンサーに対しては4打席全てでストレートの四球であった。第2試合も2打席連続四球で、痺れを切らしたスペンサーは次の打席で敬遠球を無理矢理打ち、連続四球は8打席で終わった。この8打席連続四球は当時の日本記録である。また、10月3日には野村克也率いる南海と対戦。この時スペンサーはバットのグリップとヘッドを逆さまに構えて打席に立つという抗議行動に出た。しかし南海は、その打席でもスペンサーを敬遠した。度重なる四球攻撃で徐々に調子を崩し、さらにはシーズン残り2週間というところで交通事故に巻き込まれて欠場を余儀なくされ、.311、38本塁打、77打点で無冠に終わった。野村は.320、42本塁打、110打点で、戦後初の三冠王に輝いた。
- 伊東一雄のニックネーム「パンチョ」の名付け親である。
- 来日4年目の1967年、38歳となったスペンサーはなお30本塁打を放ち阪急のパ・リーグ初制覇の原動力となった。実はこの年の開幕前、西宮球場のラッキーゾーンが3m前方に移設されていた。これは30本打つための条件としてスペンサーが球団に要望し実現していたものであった。
- 阪急のヘッドコーチであった青田昇は"D"(スペンサーのこと)こそが史上最高の外国人選手であると評している。技術・パワー・走塁など全てが桁外れであったと回想している。
- メジャーリーグ時代にワイルドランナーとして知られており、日本でも危険な走塁を何度か試みている。野村などはスペンサーがホームに突っ込んでくると、最初からへっぴり腰だったという。
[編集] 年度別打撃成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 背 番 号 |
試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁 打 |
三塁 打 |
本塁 打 |
塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死 球 |
三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1964年 | 阪急 | 25 | 146 | 511 | 89 | 144 | 32 | 0 | 36 | 284 | 94 | 4 | 2 | 7 | 85 | 80 | .282(13) |
1965年 | 123 | 405 | 68 | 126 | 21 | 1 | 38 | 263 | 77 | 1 | 0 | 1 | 79 | 64 | .311(2) | ||
1966年 | 125 | 403 | 51 | 112 | 28 | 2 | 20 | 204 | 63 | 0 | 0 | 2 | 72 | 72 | .278(4) | ||
1967年 | 124 | 413 | 65 | 113 | 17 | 0 | 30 | 220 | 68 | 1 | 0 | 6 | 67 | 70 | .274(13) | ||
1968年 | 108 | 316 | 37 | 73 | 16 | 0 | 18 | 143 | 55 | 0 | 1 | 3 | 49 | 71 | .231 | ||
1971年 | 54 | 108 | 13 | 27 | 5 | 0 | 6 | 50 | 21 | 0 | 0 | 2 | 18 | 22 | .250 | ||
1972年 | 51 | 77 | 9 | 20 | 1 | 0 | 4 | 33 | 13 | 0 | 0 | 0 | 14 | 20 | .260 | ||
通算成績 | 731 | 2233 | 332 | 615 | 120 | 3 | 152 | 1197 | 391 | 6 | 3 | 21 | 384 | 399 | .275 |
[編集] タイトル・表彰・記録
[編集] 通算成績(MLB)
出場1,098試合 打数3,689 得点457 安打901 二塁打145 三塁打20 本塁打105 打点428 塁打1,401 四球449 死球20 三振516 盗塁13 盗塁死7 出塁率.328 長打率.380 打率.244 犠飛27(※) 犠打21 併殺打103
- ※1953年以前の犠牲フライには正確な統計がないため、1954年以後の通算数を表示。
[編集] 所属
- ニューヨーク→サンフランシスコ・ジャイアンツ:1952年~1959年
- セントルイス・カージナルス:1960年~1961年途中
- ロサンゼルス・ドジャース:1961年途中~1963年途中
- シンシナティ・レッズ:1963年途中~1963年
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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