セア
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[編集] デビュー
1990年2月、全日本オートレース選手会がフジに代わる新エンジンの開発を求める要望書を日本小型自動車振興会(当時)に提出。それに伴い、旧財団法人小型自動車開発センター(現 オートレース振興協会)が民間企業8社(既存メーカー4、市販メーカー4)に対し指名設計入札を実施し、スズキとHKSが応札。審査、審議の上スズキに決定した。
1993年10月、オートレース界初となる全選手一斉乗り換えによってデビューした。形式番号はAR600。2000年4月、マイナーチェンジ(耐久性向上)の為、再度一斉乗り換えを行った。
名称は一般公募で、「バトラス」「アレックス」「ベルエア」「セア」の中から音感等のイメージが優れている「セア」に決定。「Super Engine of Auto Race」の頭文字を並べたSEARに由来している。
セアデビュー前には、ファンへ対するアピールのため、最終レース終了後に模擬レースを開催していた。
[編集] 性能
セア1級車の排気量は599ccと、従来のフジ二気筒やトライアンフ、メグロ二気筒の663ccと比べ省力だが、180度クランクの採用により振動の大幅な軽減に成功。また、懸案事項であった耐久性、整備性、操縦性も格段に向上した。何より、その振動の少なさと操縦性のよさから「コーナーも開けて回れる」エンジンに仕上がり、接近戦やスピードレースが多く見られるようになった。加えて、点火方式を従来のマグネトー方式からCDI方式へと改めた。マグネトーは故障が多く、それに伴う欠車も多く見られたが、CDIに変更したことによりそういった原因による欠車は激減した。
[編集] 問題点
振動の軽減と操縦性の向上によりコーナーでもグリップを開けて走れるようになったことが当初ファンには歓迎されたが、現在では新たな懸案となっている。
当初、排気量の低いセアではスピードレースになることは想定されていなかった。しかし、コーナーでもグリップを開けて走れるようになったということは、取りも直さず、コーナーの車速が上昇したことを意味する。結果、フジ時代以上のスピードレース時代が到来することとなってしまったのである。
このレーススタイルの変化に飲まれるように、それまで爆発的な強さを誇っていたベテランレーサーの多くが不振に喘ぐ事となってしまったことも問題と言えよう。
また、従来は選手によるエンジンのオーバーホールや、自宅での整備などが認められていたが、セア導入直後はエンジンの封印を解く事すら許されず部品交換は皆無となってしまった。後に整備要網が改定されたものの、整備範囲は旧来にエンジンと比べて極端に限定されてしまったことも問題である。
更には、部品の加工を一切禁止したため、かつては部品加工を行うことによって数万円台で済んでいた整備費用が、部品を大量に購入し「当たり」を見つけなければならなくなったため、数十万円台まで高騰してしまった。同時に、マニュアル通りの整備さえ出来れば事足りてしまうようになってしまい、特に23期以降の若手の整備技術の低下を招いてしまったことも致命的な問題点であると言える。
レース展開以上に、エンジン音の変化も問題としたファンも存在した。それまでの競走車は全て360度クランクのエンジンであり、下腹部に響き渡るような重低音が最大の特徴であった。しかし、360度クランクのエンジンは振動が強く、選手の身体に多大な負担をかけていた。それを軽減するためにセアは180度クランクを採用した。
その結果、振動は大幅に軽減されたが、エンジン音は高音化してしまい、在りし日の迫力が大幅に損なわれたという批判もある。
[編集] 幻の「360度クランク」エンジン
2005年10月、極端なスピードレース化やファン離れが深刻化する中、旧来のような重低音の魅力を再認識した日本小型自動車振興会はセア改良型エンジンの実車走行テストを実施した。この改良型エンジンは、クランクを180度から360度へ変更、それに併せカムシャフトとCDIを仕様変更したものであった。結果、エンジン音はかつてのトラやフジに勝るとも劣らない迫力ある重低音へと変貌した。実車走行テストは各オートレース場で行われ、CS放送やオートレースオフィシャルサイトでも動画配信された。2005年12月には川口オートレース場で模擬レースを行うなど、一時は採用に向けての動きが本格化していた。
しかし2006年2月、日本小型自動車振興会から検討結果報告が発表される[1]。
- 360度クランクエンジン搭載車の操縦性及び安定性を向上させるためには技術的な課題がある。
- 現行エンジンと同レベルでの完成エンジン及び部品を安定供給するためには、長期の開発期間を要する。
これらの結果報告によりセア360度クランクエンジンの早期導入については見送られてしまった。事実、セア以外のエンジン経験が無い24期以降の若手選手や白蝋病を患う選手間から不満があがったのも事実である。この結果にセアの爆音に批判的なファンは大いに落胆した。今後は市販用二輪車の採用を含めたオートレース用競走車の総合的な開発研究を引き続き行うと公式発表した。
[編集] 消音機計画
2007年10月26日、浜松オートレース場にて消音機付きマフラーの運用テストが行われた[2]。この消音機はマフラーに増設するのではなく、予めマフラーそのものに内蔵されており、1976年頃、騒音問題で揺れていた川口オートレース場で試作され、運用を見送られ現在に至るもなお保存されている物とは異なる。
この消音機付きマフラーを装着すると、セア独特の甲高い金属音が軽減される。これにより、音色自体はやや内に篭ったトラのようなものになるという。また、当然ながら音の大きさ自体も軽減される。
10月26日の浜松一般開催の前検日にて、試験走行及び模擬レースが行われた。音量のみならず、スタートタイミングや乗り味にも変化を及ぼすため、実際に採用されるか、仮に採用されるとしても時期がいつになるかは未定であるが、今後もテストを継続していくとされている。
[編集] 「セアの申し子」
セアで一躍頭角を現したのは、何と言っても片平巧(19期、船橋オートレース場所属)である。元々強い選手だったが体が弱く、1990年の第22回日本選手権オートレースで優勝して以降、フジの振動のせいかいまひとつ結果を出せずにいた片平だが、セア導入直後の1993年11月に開催された第25回日本選手権オートレースで圧倒的な強さで優勝。セアでは不可能と言われていた競走タイム3.38台をマークする。その後片平は名実共に最強となり、「セアの申し子」と讃えられた。 もう1人の「セアの申し子」として、高橋貢(22期、伊勢崎オートレース場所属)が挙げられる。セア一斉乗り換え後の一番最初のレースで勝利を飾ったのがこの高橋貢であった。その後彼は、片平をすら凌駕する強さを誇り、「絶対王者」の異名を奉られることとなったのである。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 日本小型自動車振興会『オートレース三十年史』(1981年)
- 日本小型自動車振興会『オートレース五十年史』(2001年)