ステーファン・フメレーツキイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ステーファン・フメレーツキイ(ポーランド語:Chmielecki Stefan、ウクライナ語:Стефан Хмелецький、1595年 (?)―1630年2月20日)は、ポーランド・リトアニア連合国家の軍人である。紅ルーシ出身のウクライナ人貴族で、モスクワ人とタタール人との多数の戦いににおいて手柄を立て、貧しい召使からキイフ県の県長(1630年)にまで出世したことで知られる。
ポーランドのヘーチマン、スタニスラヴ・ジョルケヴスキーの愛弟子であった。ウクライナを外敵から守り、イスラムのオスマン帝国のヨーロッパへの侵略を防ぐために、貴族・コサック合体論を唱えたいた。当時の多くの軍人がフメレーツキイの生きかたと出世に憧れ、フメレーツキイはのちのウクライナ・ポーランドの軍歌・民謡に歌われるほどの有名人となった。
目次 |
[編集] 大公たちの召使
ステーファン・フメレーツキイの生年月日は不明である。彼の父ヤン・フメレーツキイはクニンと云う村の役人であり、リューリク朝の子孫であったウクライナの名高いオストロジキイー大公家に使えていた。おそらく、若い頃のステーファンは召使としてその大公たちに雇われ、後に彼らと共にモスクワ大公国との戦争(1609年-1612年)に参陣した。モスクワの陣の時にフメレーツキイは傭兵とともに手を結び、高名を揚げて傭兵部隊の隊長の一人となり、その部隊の代表としてワルシャワの高議会を訪れた。その時、彼はスタニスラヴ・ジョルケヴスキーに出会った。戦争が終わると、ステーファンは再びオストロジキイー大公家に仕えるようになった。
1616年には、フメレーツキイは大公たちの命令に従い800人の、コサック部隊を率いて、トランシルヴァニアの内戦に加わった。それから四年間、彼はジョルケヴスキー・ヘチマンの下で活躍し、ポーランド・リトアニア連合の国境地帯であったウクライナをクリミア・タタール人の来襲から守り、敵との小競り合いにおいてタタール人の戦術を学んだ。勉強熱心であったフメレーツキイは早くもジョルケヴスキーの寵愛を受け、大切にされていた。しかし、1620年、ツェツォーラの戦いではポーランド・リトアニア連合の軍勢を率いるジョルケヴスキーは数を優るトルコの大軍に破れて討死し、フメレーツキイは敵の強いの圧迫のまえに自分の軽騎馬隊をやむなく退却させた。後ほどフメレーツキイは、その面目なき行為を打ち消すために多数の戦のなかで努力しつづけた。
1621年には、フメレーツキイはオストロジキイー大公家を去り、ザモイスキーの大領主の家来となった。新しい主人は彼の働きぶりを高く評価し、クラスネ郡とノヴィイ・メジェビージュ郡の両郡の支配と防御を任せた。
[編集] ヘチマンの麾下
1620年代はステーファン・フメレーツキイにとってはもっとも耀かしい時期であった。
1621年以降、彼はザモイスキー領主の家来でありながら、国家の軍勢をつかさどるポーランドのヘチマン、スタニスラヴ・コニエツポーリスキーの配下に入りました。フメレーツキイは軽騎馬隊を指導するのが得意であったため、彼に貴族の軽騎馬隊やコサックの部隊が任されていた。
1624年の冬、クリミア汗国の一部であるブジャックという地方からタタールの1500人を率いるマンズール・ミルザの軍勢が西ウクライナへ乱入してきた。それに対してフメレーツキイは、少数の家来衆と400人のコザックの特攻隊とともに敵の跡をつけ、2月5日にと夜討ちをかけ、全滅させた。戦い最中にフメレーツキイ自身は危い傷を負った。
1624年6月、カンティミール・ミルザが率いるクリミア・タタールの大軍は再びウクライナへ攻め入った。敵を向かい討つためにコニエツポーリスキーが自ら出陣し、フメレーツキイに相変わらず全軍の軽騎馬隊を任せ、右手に陣取りさせられた。マルティニヴ町、ハーリチ町、そしてボリショヴェツ町のあたりでタタールの軍勢がドニステル川を渡河しはじめ途端、フメレーツキイの騎馬隊は猛烈に襲いかかり、敵を川の渡しにくいところへ押し退かせた。そして、タタール人の過半が川に入ったとき、向こうの岸に隠れていたコニエツポーリスキーの貴族・コザック軍が一斉に鉄砲を討ち、敵を倒し崩した。退却するタタールの軍勢をフメレーツキイの部隊が追い始め、数十キロにわたって多数のものを斬り捨てた。そのような手柄を立てたフメレーツキイは王を大いに喜ばせ、ブラツラヴ町の軍団長の位をもらった。
1626年の冬、タタールの大軍がウクライナ人奴隷と家畜を求めて西ウクライナを侵略した。そのとき、フメレーツキイはヘチマンから800人の部隊が与えられ、跡を付けるように仰せ付けられた。しかし、フメレーツキイは司令官の指図を無視し、テルノーピリ町の近くにクリミア汗、メフメッド3世ゲライが泊まっていた敵の本陣に夜討ちを懸けた。フメレーツキイの部隊は少数であったため、暫くテルノーピリ城へ撤退したが、夜討ちの間にはにタタールに捕まって奴隷として売るべきだったウクライナ人の老若男女を救い出し、敵の多数の馬も奪った。次の日に、タタールが小団隊に分かれてクリミアへ帰るようにしたが、フメレーツキイはそれを別々で全滅させた。
フメレーツキイは己のの武勇とタタールの戦法の知識によってウクライナ貴族とコザックの間に人気ものとなった。そのことから、プロイセンに向かうヘチマン・コイエツポーリスキは彼をヘチマンの名代として「ウクライナ全軍の司令官」に任命した。
[編集] ウクライナ全軍の司令官
1626年の秋、タタールの新しい大軍が中央ウクライナへ出発した。10月9日、6000人の傭兵とウクライナ・コザックを率いるフメレーツキイは、ビラ・ツェルクヴァ町の近くにロシ川の岸で敵の本陣を襲い、多数のものを斬り捨てた。次の日々に近辺にあったタタールの小部隊が全滅させられた。フメレーツキイは40人の大将であるミルザと1200人の敵の兵を捕虜にした。
フメレーツキイの噂はトルコにも知れ渡り、1627年にはオスマン帝国は彼がウクライナで滞在していたせいで、ドニプロ川への進出をあきらめた。
1629年の秋、タタール人は再びウクライナを攻めた。そのときのフメレーツキイは自分の家来衆しか持っていなかったため、敵の跡をつけてウクライナ・コザックの援軍の到着を待っていた。援軍は10月9日にやっと参陣し、その日のうちに敵の軍勢を破らせた。タタール人は多くの歴々の武将を失い、2000人の兵士は捕虜となった。
その手柄のためにフメレーツキイは1630年にキイフ県の県長に任命された。彼が名門出身の貴族ではなかったので、国家の高議会ではかれ任命に対して大身の領主たちが「なりあがり者は職につくべからず」と強く反対していた。しかしフメレーツキイは庶民・コザック・多数の貴族、そして王に好まれていたからこそ、県長になれたのだ。そのような人気は単なる武運に基づいていただけではなく、フメレーツキイに任されたいた領地の合理的な経営かも由来していた。
フメレーツキイはトルコ、クリミア・タタール、コザックとの関係をよく理解しており、コザックの力でクリミア汗国をトルコの保護から離脱させて、反トルコの「ポーランド・リトアニア連合とクリミア汗国の同盟」を成功させようとしていた。しかし彼の計画はクリミア汗国の内戦と政治方針の変更によって実現しなかった。
また、フメレーツキイはウクライナ人の貴族でありながら、ウクライナ・コザックと友好な関係を維持していて、貴族・コザック合体を強調していた。
[編集] 死去
キイフ県の県長に任命されてまもなく、フメレーツキイはなくなった。彼の葬式は1630年2月20日に行われた。
フメレーツキイの功績は国家の高議会によって認められ、1631年、彼の二人の息子たちは税金の免状された。しかし二人とも病気のせいで1645年までに死去した。フメレーツキイの弟たちは、後にコザックがおこした反貴族のフメリニツキイの乱で打たれたが、フメレーツキイの甥ミハイロ・フメレーツキイは1651年のベレスチェチコの戦いでにコザックによって捕虜され、ウクライナ人であったため彼らと手を組み、1652年のバチフの戦いでコサックの百人を率いて手柄を立てた。
[編集] 史料・文献
- (ウクライナ語) ステーファン・フメレーツキイから王への手紙(Письма: Стефана Хмелецкаго, хорунжего Брацлавскаго, къ королю и неизвЂстнаго лица къ гетману, содержащія отчетъ o побЂдЂ, одержанной надъ татарами y БЂлой Церкви Хмелецкимъ и козацкимъ гетманомъ, Михаиломъ Дорошенкомъ. 1626 г. Окт. 9.)
- (ウクライナ語) 一人のコザックからステーファン・フメレーツキイへの手紙 (№ 3 1622, травня 16/6. — Умань.— Лист козака Криштофа Бокрицького до Стефана Хмелецького.)
- (ポーランド語) Polski slownik biograficzny (ポーランド人名辞典) . — I:III — Krakow, 1937, — s.318—320
[編集] リンク
- (ポーランド語) ステーファン・フメレーツキイにちての歌
- (ウクライナ語) 17世紀なかばまでのキイフ大公たちとキエフの支配者の目録