スカ
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スカ (Ska) は、ジャマイカで発祥した音楽。アメリカのジャズとR&Bの影響を受け、メントやカリプソの要素を含む。
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[編集] 発祥~オリジナル・スカ
スカの発祥については諸説ある。感度の悪いラジオで、ニューオーリンズなどアメリカ南部の都市のラジオ放送局からのジャズの2・4拍めが強調されて聞こえたため、誤ってコピーされたという説もある。直接的には1950年代からのアメリカのR&Bと、ジャマイカの音楽文化には欠かせないサウンド・システムの影響が大きいが、それ以前にジャマイカにはジャズの下地があり、スカ以前のメント、ラスタファリアニズムの影響があったことは事実だ。
[編集] ジャズの影響
イギリスの統治下の時代にジャマイカにもたらされたブラスバンドの形式は、キングストンでいくつかのジャズの楽団となって残っていたにせよ、1950年代までは、労働者階級にはメントが一般的で、ジャズは中産階級に好まれていた。西キングストンにある感化院、アルファ・ボーイズ・カトリック・スクールの教師が、厳しく品行を正す教育とともに、特にジャズの音楽教育のプログラムが取り入れたのはこうした理由による。トミー・マクック、ドン・ドラモンド、リコ・ロドリゲスらはこの学校でジャズを学び卒業し、デューク・エリントンやカウント・ベイシーの影響を受けたジャマイカのビッグバンドで演奏を始めていた。
[編集] ラスタファリアニズム、メントの影響
1950年代には、ジャズの手ほどきを受けたアルファボーイズ出身者らが、ラスタファリアンのカウント・オジーを訪ね、ワレイカ・ヒルでナイヤビンギに合わせて管楽器を演奏するセッションが度々行われていたという[1]。スカに特徴的な2・4拍目が強い裏打ちはこのナイヤビンギの影響もあり、アメリカ音楽に対するラスタ的な返答とも受け取れる。一方は、メントやカリプソなどカリプ圏の音楽は小節が3-3-2拍のリズムで、このリズムに対するバックビートとして2・4拍目を強調した結果であるとも言われている。
[編集] R&Bの影響
第二次世界大戦後から、ジャマイカではラジオの購入者数が増加し、ニューオーリンズなどアメリカ南部の都市のラジオ局から、ファッツ・ドミノやルイ・ジョーダンなどのR&Bを聞くことができた。そのうえ、戦後のアメリカ軍の駐留は、ジャマイカ人が軍事放送でアメリカ音楽を聞くことができたことを意味し、さらに米国からのレコードの一定の流入があった。そのような音楽の需要に応えるために、コクソン・ドッド、デューク・リードらはサウンド・システム(移動できる野外ディスコ)を形成した。サウンド・システムはスピーカーシステムのパワーと、レコードの品質の両方によって良し悪しが判断されたため、サウンドマン達はマイアミやニューオーリンズからレコードを独自に入手した。R&Bやジャンプ・ブルースが1960年代前半に人気があった時に、ジャマイカの音楽家たちは、それらのカバーを録音した。
[編集] ジャマイカの独立
1960年代初め、スカは急激にジャマイカの音楽シーンを席巻しはじめた。アップテンポの裏打ちは1962年のジャマイカ独立を祝う気持ちと一致していた。例えばデリック・モーガンの「Forward March」やザ・スカタライツの「Freedom Sound」は、ジャマイカ独立を記念した曲である。スカのバンド編成がジャズバンドと同じため、ジャマイカン・ジャズ (Jamaican Jazz) とも呼ばれるが、これは、初めて海外にスカが紹介された1964年ニューヨークで開催された国際見本市において、ジャマイカン・ジャズと説明されたのが始まりである。この見本市では、バイロン・リー&ドラゴネアズ、プリンス・バスター、エリック・モリス、ピーター・トッシュらが選ばれ、演奏した。当時のジャマイカの音楽プロデューサーたちはスカを海外に波及させようとしていて、それをジャマイカ政府が支持していた。このような指向性でのスカは、積極的にメントなどのジャマイカの旋律の復活が試みられた。歌詞のある曲については、ブルース・バスターズの「Wings of a Dove」、エリック・モリスの「Oil in My Lamp」、ジミー・クリフの「King of Kings」、デズモンド・デッカーの「Israelites」など、キリスト教(ラスタファリズムではない)の復活を反映させたものが目立って多かった。その他の歌はほとんどが大衆的で、ジャマイカンパトワを必要としないナンセンスな内容だった。エリック・モリスの「Humpty Dumpty」や「Solomon Gundie」、デルロイ・ウィルソンの「Dancing Mood」などは、もっと後に生まれるロックステディとの橋渡しをする曲と言える。
[編集] ルードボーイ
その一方で、スカのもっとも最初のリスナーたちは、地方からキングストンに仕事を求めて来たゲットーに住む若年貧困層であった。彼らはハリウッド映画のギャングを真似して、黒いスーツに細いネクタイを身に付け、ポークパイハットをかぶった。このルードボーイ(Rude Boy)たちは、時に法律をよく犯したため、時に「Scofflaw(常習的違反者)」と呼ばれた。上記の大衆的なスカが国外向けであるとすれば、対称的に国内向けのスカでは、ソウル・ブラザーズの「Lawless Street」、ヘプトーンズの「Gunmen Comin to Town」、デズモンド・デッカーの「007 Shanty Town」、ダンディ・リビングストンズの「A Message to You Rudi」、プリンス・バスターの「Judge Dread」などのように、ルードボーイの生活を反映した歌が作られた。コクソン・ドッドは、ルードボーイとして思い描いた若いグループ、ウェイラーズ(ボブ・マーリー、ピーター・トッシュら)の歌を録音した。ルードボーイたちが踊ったスタイルによってスカにも影響を及ぼし、音楽はより脅迫的に激しく、ベースラインはよりシンプルに変化した。
[編集] ロックステディへ
詳細はロックステディを参照
1966年までには、多くの聴衆はスカのビートと速度に疲れるようになり、ビートはより遅くされてロックステディへと移行する。遅くなった理由として、ジャマイカの暑い夏のためとする見方もあるが、アメリカのR&Bからの影響が継続していたという点も挙げられる。1960年代なかばのモータウンやスタックスのソウルがより伸びやかで滑らかなスタイルに変化したことに、ジャマイカのミュージシャンも同調した。
[編集] ツートーン以降
1970年代末には、イギリスでモッズスタイル、パンクとスカを融合した荒々しいサウンドの2トーン・スカが隆盛。主なバンドとしてマッドネス、スペシャルズなどが知られる。なお、2トーン・スカと区別するため、1960年代ジャマイカ産のスカをオリジナル・スカ (Original Ska) 、あるいはオーセンティック・スカ (Authentic Ska) と呼ぶこともある。
1980年代前半にアメリカでフィッシュボーンがスカとパンク等を融合したクロスオーバーと呼ばれたロックを展開(時期を同じくして日本ではレピッシュが活躍)。 その後、米の代表的なネオスカバンドトースターズのボーカリストであるバケットが、オーセンティック・スカ~パンク系までのオールマイティーなスカレーベルムーンスカ・レコードを設立。アメリカにおいて「サードウェーブ・スカ」と呼ばれるムーブメントを引き起こした。 一方ヨーロッパでは下火ながらも2トーン・スカのスタイルも継承し続けられ、日本ではネオスカと呼ばれ、世界的にはPOST 2TONE等で呼ばれる。
サードウェーブスカとオーバーラップする形で1980年代終わりごろから、歪んだギターサウンドが特徴の、よりハードなスカコア/スカパンクが派生した。
1990年代前半までには、スカとスカ・パンクのバンドはアメリカ他世界中に出現した。1997年、ランシドのティム・アームストロングとバッド・レリジョンのブレット・ガーヴィッツが、エピタフレコードのサブレーベルとして、ヘルキャットレコードを創設。ヘプキャット(Hepcat)、スラッカーズ(THe Slackers)など、スカ、スカ・パンクの多くのバンドを同レーベルから産み出した。
[編集] 脚注
- ^ bounce.com『Rico Rodriguez インタビュー』2006年7月24日
[編集] 代表的なスカバンド
- イングリッシュ・ビート English Beat
- ザ・スカタライツ The Skatalites
- ザ・スペシャルズ The Specials
- トースターズ The Toasters
- バスターズ The Busters
- バッド・マナーズ Bad Manners
- マッドネス Madness