ジョン・ディーコン
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ジョン・ディーコン | |
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基本情報 | |
出生日 | 1951年8月19日(56歳) |
血液型 | O型 |
ジャンル | ロック |
職業 | ベーシスト(現職不明) |
担当楽器 | エレクトリックベース |
活動期間 | 1973年-1991年 |
共同作業者 | クイーン |
ジョン・リチャード・ディーコン(John Richard Deacon、1951年8月19日 -)はロックバンド、クイーンのベーシスト。イギリス・レスター生まれ。O型。「マイ・ベスト・フレンド」、「地獄へ道づれ」、「ブレイク・フリー (自由への旅立ち)」などの、クイーンのヒット曲の作者。近年は目立った音楽活動は行っておらず、クイーン+ポール・ロジャースの活動にも参加していない。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 幼少期からクイーン参加まで
7才の時に両親から買い与えられたおもちゃのギターから音楽に興味を持ちだす。音楽と並行して機械いじりにも興味があり、無線装置などで遊んでいたという。この機械に対する興味が後々、彼の進路と音楽活動に影響を与えることになる。新聞配達で稼いだお金でアコースティック・ギターを購入したのが本格的な音楽活動の第一歩。14才からジ・オプジションというバンドにリズムギターで加入するが、そこにいたベーシストがバンドのレベルに次第についていけなくなったため脱退。ジョンがベースに転向することになる。後に同じ名前のバンドが現れたため、ザ・ニュー・オプジション、さらにジ・アートという名前に改名することになる。このバンドはジョンがロンドン大学分校・チェルシーカレッジ電子工学科に入学するまで続けられた。大学に入ってからは学業に専念。チェルシーカレッジはなんと首席で卒業し、名誉学位を与えられる。
ジョンは大学在籍時から友達と趣味程度のバンドを組むようになるが、数回の活動で終わってしまう。その後いくつかのバンドのオーディションを受けるがすべて落選。そうした中、1971年1月に友人のクリスティン・ファーネルと行ったディスコで、ブライアン・メイとロジャー・テイラー(この二人もクリスティンの友人であった)に会い、ベーシストが定着していなかったクイーンのオーディションを知らされる。その後面接を受け、採用されることになるのだが、採用の決め手はベースの腕前もさることながらジョンが謙虚な人柄で(脱退したベーシスト達は自己主張が強かったという)、機械に強かったからと言われている。
[編集] クイーン内での役割
自分では歌が歌えないのと、クイーン内では最年少だったこともあってか、当初ジョンの存在感は薄く、また他の3人に比べると作曲を始めるのが遅かったが、3枚目のアルバム『シアー・ハート・アタック』収録の「ミスファイアー」で初めて自作曲が採用される。
すると4枚目のアルバム『オペラ座の夜』では2曲目の自作曲にして早くも全英7位、全米16位のヒットとなる「マイ・ベスト・フレンド」が収録され、その後はアルバム毎に自作曲を1、2曲提供するようになった。この曲ではフレディが生ピアノでなくては弾きたくないと拒んだため、ジョン自身がエレクトリックピアノを弾いている。この中で全米1位、全英7位、全世界で700万枚セールスを挙げたクイーン最大のヒット曲「地獄へ道づれ」、全英3位、世界数カ国でナンバーワンヒットとなった「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」など、寡作ながらもクイーンの代表曲となる曲を発表していき、クイーン内での存在感を徐々に増していった。
また、ブライアンのために小さなギターアンプ「Deacy(ディーキー)」を自作、ブライアンはレコーディング時にこれを重宝し、あの独特なサウンドを次々と生み出していった。
クイーンのファーストアルバム『戦慄の王女』のクレジットでは、ディーコン・ジョンとクレジットされているが、これはそのほうが響きがいいからという理由で、メンバーから逆にするように勧められたことによる。実際に初期の音源では、司会者にディーコン・ジョンと紹介されていることから、誤植などではなく意図的なものだということがわかる。なお、セカンドアルバム以降は普通の表記に戻っている。
[編集] ソロ活動
ジョンは歌うことができないため、クイーンの他のメンバーのようにソロアルバムは発表することはなかった。しかし、クイーン以外のミュージシャンとコラボレートして発表した作品はいくつか存在する。まず1983年にシン・リジィのスコット・ゴーハム、バッド・カンパニーのサイモン・カークとミック・ラルフス、プリテンダーズのマーティン・チェンバースらと「MAN FRIDAY and JIVE JUNIOUR」名義で、ジャム・セッションから生まれた「Picking Up Sounds」を、また1986年には、イギリス映画『Biggles』のための即席ユニット「The Immortals」名義で、ジョンが作曲に携わった「No Turning Back」をそれぞれシングル発表している。しかしどちらも、商業的に成功することはなかった。
ちなみに、後者の「No Turning Back」は、後に本田美奈子が「ルーレット」と改題して日本語カバーしている。
[編集] フレディ死後の音楽活動
フレディの死後は音楽活動からは消極的になったようで、フレディ・マーキュリー追悼コンサートの参加にも当初は否定的で、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの説得によってようやく参加を決めたという。フレディ抜きのクイーンに彼が参加した企画は以下の通り。
- フレディ・マーキュリー追悼コンサート(1992年4月20日、イギリス・ウェンブリースタジアムで開催)
- モーリス・ベジャールバレエ団による「バレエ・フォー・ライフ」のオープニングイベントでエルトン・ジョンをボーカルに迎えての「ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン」の演奏(1997年1月17日、パリで開催。このバレエはフレディとモーリス・ベジャールバレエ団に所属していてエイズによって1992年に亡くなったジョルジュ・ドンに捧げられた物で、クイーンの曲に合わせてバレエが披露される)
- アルバム「クイーン・ロックス」に収められたノー・ワン・バット・ユー(オンリー・ザ・グット・ダイ・ヤング)(1997年発売。ダイアナ妃とフレディに捧げられた新曲。ゲストボーカルは迎えず残された3人での演奏)
- ミュージカル「ウィ・ウィル・ロック・ユー」の初期構想への参加(2004年頃)
[編集] 現状
1997年以降、完全に表舞台に出てこなくなったため引退したかどうかも不明だったが、クイーンと付き合いの長い東郷かおる子が寄稿したクイーン+ポールロジャース日本公演(2005年)のパンフレットには「音楽業界から引退」と書かれている。イギリスのリッチリストによると、「ジョン・ディーコンはツアーには参加しなかったが、著作権使用料と、ミュージカルWe Will Rock Youの長きに渡る成功により、利益を得た。」となっている。最近ではMyspace上に自分のページを設けたり(そしてすぐに閉鎖)、時折自分のファンサイトに書き込みをするなどして、ファンを驚かせている。
[編集] 外部リンク
メンバー |
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フレディ・マーキュリー - ブライアン・メイ - ロジャー・テイラー - ジョン・ディーコン |
オリジナルアルバム |
戦慄の王女 - クイーン II - シアー・ハート・アタック - オペラ座の夜 - 華麗なるレース - 世界に捧ぐ - ジャズ - ザ・ゲーム - フラッシュ・ゴードン - ホット・スペース - ザ・ワークス - カインド・オブ・マジック - ザ・ミラクル - イニュエンドウ - メイド・イン・ヘヴン |
ベストアルバム |
グレイテスト・ヒッツ - グレイテスト・ヒッツII - クイーン・ロックス - グレイテスト・ヒッツIII 〜フレディー・マーキュリーに捧ぐ〜 - クイーン・イン・ヴィジョン - ジュエルズ - ジュエルズII |
ライブアルバム |
ライヴ・キラーズ - ライヴ・マジック - クイーン・ライヴ!!ウェンブリー1986 - オン・ファイアー/クイーン1982 |
映像作品 |
グレイテスト・ビデオ・ヒッツ1 - グレイテスト・ビデオ・ヒッツ2 - オン・ファイアー/クイーン1982 - ラストツアー/クイーン1986 - フレディ・マーキュリー追悼コンサート |