ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)
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ダイアナ | |
本名 | Diana Frances Spencer |
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生年月日 | 1961年7月1日 |
没年月日 | 1997年8月31日(満36歳没) |
出生地 | イングランド ノーフォーク |
ジャンル | イギリス女王エリザベス2世の チャールズ王太子の元妃 |
ダイアナ(Diana, Princess of Wales (Lady Diana Frances Spencer)、1961年7月1日 - 1997年8月31日)は、イギリス女王エリザベス2世のチャールズ王太子の元妃。1996年に正式離婚した。1997年、パリでの交通事故により不慮の死を遂げた。それぞれ第2位および第3位のイギリス王位継承者であるウィリアム王子およびヘンリー王子の実母。 2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で第3位となった。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 少女時代
ダイアナは、オールトラップ子爵エドワード・スペンサーと子爵夫人フランセスの三女として、サンドリンガム・ハウス(イングランドのノーフォークにあるイギリス王室の邸宅)で生まれた。父のオールトラップ子爵は1975年、第8代スペンサー伯爵を相続した。スペンサー家は15世紀に欧州でも有数の羊商として財をなし、チャールズ1世からスペンサー伯爵の地位を受けた。婚姻関係によってチャールズ2世の血筋も受け継いでいる。母方のファーモイ家はノーフォークの名士であった。姉弟に姉のセーラ・マコーコデールとジェーン・フェローズ、弟のチャールズ(1992年より第9代スペンサー伯爵)がいる。
オールトラップ子爵夫妻はフランセスの不倫が原因で1967年に別居し、1969年に正式に離婚した。父は後に再婚したが、両親の離婚はダイアナ姉妹に大きな心の傷を与えた。ダイアナは最初はノーフォーク、後にケントの寄宿学校で教育を受けたが、成績は悪かった。ただ、乗馬や水泳などのスポーツやピアノは得意だった。16歳の時にスイスの花嫁学校に入っている。
[編集] 結婚
スイスから帰国したダイアナは社交界にデビューし、1978年11月にバッキンガム宮殿で開かれたチャールズ王太子の誕生日パーティーで初めて将来の夫と対面する。ダイアナがこのパーティーに招待されたのは長姉のセーラが1977年から1978年にかけて王太子と交際していたからである。この交際はうまくいかなかったが、チャールズはスペンサー家のことはよく知っていたのである。
やがてダイアナはロンドンのアパートで住むことを許され、保育士として働きはじめた。1980年7月ダイアナは再びチャールズと出会い、交際を深めていった。だが、チャールズには既に恋人のカミラ・パーカー・ボウルズがおり、カミラがチャールズにダイアナとの結婚を薦めたと言われる。1981年2月24日チャールズ王太子とダイアナの婚約が発表された。
1981年7月29日、20歳の時にチャールズ王太子とロンドンのセントポール大聖堂で結婚した。1982年に長男ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス、1984年に次男ヘンリー・チャールズ・アルバート・デーヴィッドが生まれた。だが、チャールズはカミラとの交際をやめず、この秘密の交際にダイアナは早くから気付いていた。このため、彼女は過食症による摂食障害を起こすようになった。世界中のマスコミがプリンセス・ダイアナを追いかけていたが、本人自身は不幸の真っ只中にあったのである。「私は二人分の食事をとっているかもしれないわ。」という言葉が、「三人目懐妊か?」と世界中の新聞に掲載されたが、これは実際は妊娠ではなく過食症の状況を暗示していた。
[編集] 離婚と事故死
チャールズとカミラの交際は世間に知れ渡り、これを機にダイアナも王室職員やさまざまな男性と大っぴらに付き合うようになった。夫婦は1992年12月9日に別居し、1996年8月28日に正式離婚した。
ダイアナはプリンセス・オヴ・ウェールズ(ウェールズ大公妃)を引き続き名乗ることと、ケンジントン宮殿の居住を認められ、その後は対人地雷廃止運動やエイズ啓発活動などに関っていた。
1997年8月31日に、フランスの首都のパリで、当時の恋人であるエジプト系イギリス人の大富豪のドディ・アルファイドとともにパパラッチに追跡された果てに、乗車したパリのリッツ・ホテルのメルセデスベンツS280のハイヤーがパリ市内のトンネル内で交通事故を起こし急逝した。36歳という若さであった。
なお、事故直後は生存しており救急隊員に対応していたため(うわ言で「Leave me(私に構わないで・放っておいて)」と言い続けていたという)、BBCでは「重傷」と報道していたものの、その後事故の際に受けた脳損傷などが原因で死去した。ダイアナの急死のニュースは世界中のマスメディアがただちに各国へ配信、世界中が驚愕することとなった。
訃報が知れわたった翌日9月1日には、ダイアナの居住していたケンジントン宮殿の門前にはたくさんの人々が訪れ献花や死を悼むカードが捧げられ、各国のイギリス大使館には記帳台が設置された。ダイアナの遺体をフランスまで引き取りに行ったのは、かつての夫チャールズであった。
[編集] 「国民葬」
国葬にすべきとの世論がすぐにイギリス国内で高まったが、王室の伝統に鑑みて、トニー・ブレア首相は「国民葬」にする旨を発表した。9月6日、ウェストミンスター寺院で国葬に準じた盛大な葬儀が行われた。バッキンガム宮殿に半旗が掲げられないことから「王室はダイアナの死を悼んでない」との非難も沸きあがった(当時の世論調査では王室廃止賛成が反対・存続を上回った)。
それまでバッキンガム宮殿には半旗を掲げる伝統は無く、またそもそもバッキンガム宮殿の王室旗の掲揚は国王が宮殿にいる事を示すものであって、女王はスコットランドに滞在していたことから、伝統に従えば旗を掲げてはならない状況だった。しかし、世論の王室への風当たりが強まるのを見て、これまでの伝統は覆された。女王が葬儀に出発し宮殿を出て、掲揚していた王室旗を下ろしたあとに、あらたにユニオンジャックが半旗として掲げられた。
王室旗に包まれたダイアナの棺は衛兵に担がれ、ケンジントン宮殿からウェストミンスター寺院に移された。葬列には前の夫のチャールズと二人の息子、ウィリアムとヘンリーも参加した。3人は喪服ではなく紺のスーツを着用していた。沿道には多くの人々が集まり、ダイアナの死を悼んだ。エリザベス女王も沿道に立ち、棺が目前を通過すると頭を垂れた。
[編集] 埋葬
遺体はノーサンプトン州オルソープにあるスペンサー家領地内の池に設けられた墓所に埋葬された。ダイアナの葬儀時、友人のエルトン・ジョンが、マリリン・モンローへの追悼曲であった「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」の歌詞を書き直した「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」を生演奏した。
生前「人々のプリンセスでありたい」と述べていたダイアナだが、その通り、国民からは現在も“イングランドのバラ”(「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」には「Good Bye England's Rose」という歌詞が登場する)として慕われている。なお、ダイアナの墓所は盗掘を防ぐため墓碑はなく、正確な位置を知っているのは関係者だけである。
[編集] 彼女の死に関する陰謀論
[編集] 「ダイアナ謀殺説」
ダイアナ妃の最後の恋人は、武器商人でありロンドンの名門百貨店ハロッズおよびパリのリッツ・ホテルのエジプト人オーナーの息子ドディ・アルファイドであった。事故当時も車に同席しており、彼も同時に死亡している。このことからアラブ世界では早くからイギリス情報局秘密情報部(MI6)による暗殺説が流布されていた。動機としては、
- 事故当時、ダイアナ妃はアルファイドの子どもを妊娠しており、出生後アルファイド一族によって将来のイギリス国王の異父兄弟としての地位を利用される事を恐れた
- 事故の数ヶ月前にダイアナ妃の実母がカトリックに改宗しており、ダイアナ妃を通じて王太子らに影響を与える事を恐れたため
などが取り上げられたが、証拠は一切無く陰謀論に過ぎないと見做されている。
事故の際、ダイアナの運転手は抗うつ薬を飲んでいた上、相当量の飲酒もしていたとされていた。しかし直前に撮影された映像では、運転手が特に酩酊している様子がないことから、服薬と飲酒の程度については疑問が残っているが、いずれにしても160キロ以上という非常に高速で一般道路を走行した末、トンネル直前で合流路から進入してきたパパラッチが所有する白いフィアット・ウーノをよけようとして接触し、トンネル内の道路側壁に激突したという事実が証明されている。
[編集] 事故原因究明のための審問
事故現場で捜査に当たったパリの警察は否定しているが、「ダイアナ謀殺説」は根強く残っている。また、ダイアナと交際していた王室職員の事故死についても、「あれは殺されたのだ」とダイアナ自身が語ったテープが最近公表されたことから、イギリス検察当局も再調査を開始しており、チャールズ王太子にも事情聴取が行われた。審問は2004年1月に開廷された。
捜査は2006年12月まで続けられ、ロンドン警視庁のジョン・スティーブンズ前長官が12月14日に約3年にわたる調査の結果を発表。「運転手の飲酒運転と無謀運転が事故の原因であり、殺害の陰謀はなかった」と暗殺説を否定した。同時に事故当時、ダイアナが妊娠していたとする説も公式に否定された。それでも一部には、「ダイアナ謀殺説」を信じている人々はいるようである。
2007年1月8日に、ダイアナの死因究明の審問が3年ぶりに再開された。検視官は2006年末の資料その他を基に、事故原因の特定を進める。スティーブンス前警視総監は、「報告書が審問結果を予断しているわけではない」、と述べた。そして、イギリス警察はダイアナの妊娠説とアルファイド氏とに婚約説をきっぱり否定し国民に報告したが、アルファイドがダイアナへのプロポーズのために婚約指輪をオーダーした高級宝石店が、2人の近日中の婚約の予定を認め、その証拠としてアルファイドが婚約指輪をピックアップした瞬間の防犯カメラの映像と、その指輪の写真を世界中に同時公開した。
最終的に、ダイアナの乗った車は「無謀な高速走行による事故」と断定され、陰謀説は否定された形となっている。しかし疑惑を完全に払拭したとはいえないこともあり、「陰謀論」を唱える者が後を絶たない状況である。
[編集] 称号
チャールズ王太子との離婚に伴い、ダイアナは「殿下」の敬称が付随したウェールズ大公妃殿下(ハー・ロイヤル・ハイネス・ザ・プリンセス・オヴ・ウェールズ)の称号を自動的に失ったが、ウェールズ大公妃ダイアナと名乗ることは許された。これは貴族と離婚した女性が、離婚後も夫の爵位に基づく儀礼称号を名乗り続けることができる慣習を適用したものである(ただしこの場合は、王室側とダイアナ側での協議により決定された)。2005年にチャールズと結婚したカミラは、プリンス・オブ・ウェールズの妻として自動的にプリンセス・オブ・ウェールズの称号を与えられたものの、国民のダイアナ人気に配慮して、プリンセス・オヴ・ウェールズの称号の使用を辞退し、コーンウォール公爵夫人(スコットランドにおいてはロスシー公爵夫人) の称号を名乗っている。
イングランドにおけるダイアナの呼称(style)は、彼女の生涯にわたって次のように変わった。
- ダイアナ・スペンサー(子爵)令嬢 - The Honourable Diana Spencer (1961年7月1日~1975年6月9日:出生から父の伯爵位相続まで)
- ダイアナ・スペンサー(伯爵)令嬢 - The Lady Diana Spencer (1975年6月9日~1981年7月29日:父の伯爵位相続から結婚まで)
- ウェールズ大公妃殿下、スコットランドではロスシー公爵夫人等 - Her Royal Highness The Princess of Wales (1981年7月29日~1996年8月28日:結婚から離婚まで)
- (元)ウェールズ大公妃ダイアナ - Diana, Princess of Wales (1996年8月28日~1997年8月31日:離婚から死去まで)
[編集] 逸話
- 1986年には夫のチャールズ皇太子とともに来日した。
- 「ダイアナ」とはローマ神話での狩猟の女神の名前である。それを踏まえ、「狩猟の女神の名を持つあなたが、人々に追い掛け回されるのはなんという皮肉であろう」とダイアナの弟のスペンサーは弔辞を述べた。
- 1995年に、BBCテレビのインタビューで自らが自分の腕と足を傷つける、自傷行為を行っていた事、拒食・過食の状態にあったことを告白した。これによって自傷行為・過食症に対する関心は強まった。ただし、この番組のインタビュアーのマーティン・バシールは巧みな話術で知られ、ダイアナ本人が意図して言ったことなのかどうかは不明である。だが、現在知られる彼女のイメージはこの番組の影響が大きい。
- また、チャールズの不倫とそれに対する自傷行為などを、自分に好意的なマスコミに対して自ら積極的に売り込んでいたことを暴露されている。
- ダイアナのロングヘアが途中からショートカットに変わったのはイギリス陸軍の特殊空挺部隊(SAS)のキルハウス(Kill House 家宅捜索訓練用モックアップ)を見学中、フラッシュバン(特殊閃光音響手榴弾)によって髪の先が焦げたためである。彼女は見学前に一切の事故に対しSASを免責とするという証書にサインしていたため、隊員が処分されることはなかった。
- 首相官邸に電話して「君主制反対」と言ったことがある。
- 離婚後、王族として自国のデザイナーの服を着る、という縛りがなくなり、ジャンニ・ヴェルサーチなどのトレンドに乗った服を身につけるようになり、ファッション・アイコンとして知られるようになった。のちに、息子ウィリアムの「ママは服をいっぱい持っているけど、着ないなら、チャリティーに寄付したら?」の一言で、所有するドレス類をチャリティー・オークションにかけ、収益金を慈善団体に寄付した。
- 死後「イングランドのバラ」と呼ばれた彼女だが、亡くなる直前の1997年にイギリスのハークネス社がバラの品種を彼女に献呈。苗木の売上の一部をイギリス肺病基金に寄付することを条件に、「プリンセス・オブ・ウェールズ」の品種名を下賜された。彼女は「このような素敵なバラに私の名前を付けてくださいましてありがとうございます。このバラの苗木の売上が肺病の患者とその研究に貢献できることを大変嬉しく思っています」と直筆の謝辞を贈っている。死後には、アメリカ合衆国のJ&P社で作られたバラの品種が、苗木の売上の一部を途上国支援のための「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ記念基金」に寄付する条件で、「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」と命名することが許された。
[編集] 関連項目
- イギリス王室
- コンサート・フォー・ダイアナ
- バラ
- クィーン (映画)
- 日本自動車博物館 - 故ダイアナ妃が三回にわたり来日された際に、お乗りになられたお車が展示されています。