ジョン・サイクス
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ジョン・サイクス(John James Sykes、1959年7月29日-)は、ヘヴィメタル・ハードロックのギタリスト。イングランド・レディング生まれ。現在は米国在住。
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[編集] 来歴
- 父の仕事の関係でスペイン・イビザ島に滞在していたとき、退屈しのぎにギターを始めたという。彼の叔父のプレイを間近で見る事が出来たが、それまでにも遊び半分でギターに触った事があり、ギターが弾けると思い込んでいた彼は伯父のプレイを見てギターに真剣に取り組む事となる。その後テレビでゲイリー・ムーアの演奏をみて相当な衝撃をうけた。
- 彼自身のデビューとなる英国で結成したバンド、タイガース・オブ・パン・タンは当時のヘヴィメタル・ブーム、NWOBHMの中での人気バンドとなる。
- その彼に目をつけたのがシン・リジィのリーダー、フィル・ライノットだった。シン・リジィは当時メンバー間の不和などで解散寸前だったが、フィルがメンバーに「すごいギタリストがいるんだ、もう1枚だけ彼を入れてアルバムを作って、ツアーをして、解散しよう」と相談して了承された。ちょうど同じ頃、ジョンはランディ・ローズを失ったばかりのオジー・オズボーンからも参加を打診されていたが、かねてからの憧れだったシン・リジィへの加入を決断する(アマチュア時代、ジョンはスタッフに金をつかませ、チケットなしでリジィのライブに忍び込んだこともある)。こうして完成したアルバムが「サンダー・アンド・ライトニング」(1983年)と、最終公演を収めたロック史上に残るライブ盤 「ラスト・ライヴ」(1983年)であり、その鮮烈なプレイでジョンの名は世界的に有名になる。解散を承知で加入したジョンをフィルは弟のように可愛がり、自らのソロ活動にも帯同させ、プライベートでも行動をともにしたが、1986年1月4日、フィルはヘロインの過剰摂取で他界してしまう。
- 次に彼を誘ったのは同じ英国のバンド、ホワイトスネイクのデヴィッド・カヴァーディルだった。ホワイトスネイクはそれまでのメンバーを一新し、コージー・パウエル(ドラムス)とニール・マーレイ(ベース)を加えた最強のメンバーとなっていた。続いて次作のアルバムにかかるが、デヴィッドとの衝突からメンバーが次々と脱退。ジョンはアルバムを完成させるものの、発売をみることなくバンドを去ることになってしまった。この完成したアルバム全米2位、800万枚の大ヒットとなる「サーペンス・アルバス(白蛇の紋章)」である。
- ザ・ファームにいたトニー・フランクリンらを誘い自らのバンドブルー・マーダーを結成。後にバンド名をシンプルに Sykes と変更してしばらく活動していた。
- その後シン・リジィを再結成。2005年のツアーメンバーは、ジョン、スコット、マルコ・メンドーサ(ベース)、マイケル・リー(ドラム)。
[編集] 音楽性
- 演奏スタイルはギブソン・レスポールにこだわった荒々しくも感情のこもった情熱的な線の太いプレイ。現在はブルースに傾倒しているゲイリー・ムーアの、ハードロック時代の魂を受け継いだようなギタリストである。
- デンマーク出身のHM/HRバンドプリティ・メイズがアルバム『Sin-Decade』の中に含めたバラード「Please don't leave me」はジョン・サイクスがオリジナル。原曲ではフィル・ライノットが歌っている。プリティ・メイズのバージョンのヒットにより、その後ジョン・サイクスのバージョンもシングルで再発された。
[編集] プレイスタイル
ピックの持ち方は逆アングルでショーン・レイン等と似たスタイルで、プレイ自体はペンタトニック・スケール中心のオーソドックスなものである。速弾きはフルピッキングである。
[編集] 機材
メイン・ギターは黒のギブソン・レスポール・カスタム。ギブソンのニュース フィル・ライノットのベースのルックスに合わせたものである。アンプはマーシャルJCM800を主に使用。ブルー・マーダー時代はメサ・ブギーも使用した。弦はアーニー・ボールのレギュラー・スリンキーでゲージが.010 ~ .046のセットである。