ジョン・キーツ
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ジョン・キーツ(John Keats、1795年10月31日-1821年2月23日)は、イギリスのロマン派のロマン主義の詩人。
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[編集] 生涯
ロンドンのモーゲートにて馬丁の長男として生まれる。人生の初めの7年は幸せであったが、1804年、父を落馬事故による頭部骨折で亡くしたのが困難の始まりであった。母はまもなく再婚したが、再婚相手とはすぐに別れ、子供たちをつれてキーツの祖母と同居するようになる。1810年、母は結核で死去。祖母の計らいで外科助手として奉公に出される。1814年まで奉公を続けたが、親方との激しいやり取りの後、奉公を終えて地方病院の学生となることができた。このころ、詩作に傾倒しはじめる。
1817年の春、ジョンはワイト島へ1週間ほどの旅行に出かけた。同年、処女詩集『詩集』( Poems by John Keats )を出版した。1818年、スコットランドを旅行した時にファニー・ブーロン( Fanny Brawne )と知り合い翌年婚約を交わす。同年、彼は4巻4千行にも及ぶ寓意叙事詩『エンディミオン』( Endymion )を出版したが、評論誌、雑誌から激しく批判される。気落ちした彼は、スコットランドとアイルランドへ旅行に出かけ、ブリテン島最高峰のベン・ネヴィス山頂に立った。このときの体験は彼を精神的に成長させたといわれている。旅行中、ジョン自身も結核の兆候を示したので、旅行を短縮して帰郷した。弟トム・キーツは1818年に彼の母と同じように結核により死去。
キーツはミルトン風無韻詩による哲学的叙情詩『ハイペリオン』( Hyperion )を書き出すが、未完に終わる。これをスタイルを変え改稿し『ハイペリオンの没落』( The Fall of Hyperion )として新たに書き始めたが、こちらも未完に終わる。
ジョンの病状も悪化し、医者の勧めでイギリスの冷たい空気をさけ、イタリアで療養することになった。イタリアでの住まいはローマのスペイン広場の近くであった。1819年には、『秋に寄せて』( To Autumn )、『ギリシャの古壺のオード』( Ode on a Grecian Urn )などの代表的オード( Ode )が次々と発表された。病状は好転せず、彼はファニーとの結婚を諦める。友人たちの手厚い看護もむなしく、ジョンは1821年2月23日、25歳の若さで死去。ローマの新教徒墓地に葬られる。彼の遺言により、墓石には"Here lies one whose name was writ in water."「その名を水に書かれし者ここに眠る」と彫られている。
[編集] 著作
- ラミア(Lamia):1819年作。アイザック・ニュートンのプリズムによるスペクトル発見に代表される科学、哲学の発展が文学の詩情を破壊した、と激しく非難する詩(全文はウィキソースのこちらを参照。日本語での解説はここを参照)。
この中の一節"Unweave a rainbow"(「(学問が)虹をばらばらにする」)は、リチャード・ドーキンスが自作の題名とした(原題"Unweave the Rainbow"、邦題『虹の解体』)。この本では、キーツに代表される文学者の科学に対する否定的見解に反駁して、科学の発展は宇宙に対する"センス・オブ・ワンダー"を生み、それこそが詩情の源泉となる、とドーキンスは説いている。
[編集] 関連項目
- キーツ (小惑星) 彼に因んで命名された小惑星(4110)。