サンフランシスコ・シールズ
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サンフランシスコ・シールズ(Sanfrancisco Seals)は1903年から1957年までアメリカに存在していたプロ野球チームである。
メジャーリーグベースボール傘下のAAA(トリプルエー)・パシフィックコーストリーグに所属していた。
現在のサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下のAAA球団、フレズノ・グリズリーズの前身にあたる。
1949年には戦後初の日米野球を行なうため来日した。そのためMLB球団ではないにもかかわらず日本での知名度は高かった。
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[編集] 概要
シールズは1903年にパシフィック・コーストリーグが結成された時の創設メンバーでもあり、以降同リーグでは上位争いの常連であった。 1931年、シールズの本拠地球場としてシールズ・スタジアムが完成し、以降ここをホームグラウンドとした。 1935年からは「レフティ」の愛称で親しまれたフランク・オドールが監督に就任し、同年には遠征していた大日本東京野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)と親善試合を行なっている。 1958年、ニューヨーク・ジャイアンツがサンフランシスコに移転することが決まり、シールズは同球団傘下のAAAチームとしてアリゾナ州フェニックスに移転、「フェニックス・ジャイアンツ」を名乗った。なお、本拠地のシールズ・スタジアムはジャイアンツの本拠地として2年間使用され、その後新設されたキャンドルスティック・パークに移転した。 フェニックス・ジャイアンツはその後一時期ワシントン州タコマに移転した後再びフェニックスに戻り、1998年のアリゾナ・ダイヤモンドバックス創設以降はカリフォルニア州フレズノに移り、現在のフレズノ・グリズリーズとなっている。
「シールズ」の名前はなくなったが、現在でもジャイアンツのマスコットは「Lou Seal」という名のアザラシである。
なお、シールズは基本的にはどこのメジャー球団にも属さないチームだったが、オーナーとの関係からジャイアンツ(ニューヨーク時代)、ドジャース(ブルックリン時代)、ヤンキース、レッドソックスの傘下に属していた時期もあった。
[編集] 日本遠征
1949年10月、シールズはGHQ最高司令官・マッカーサー元帥の招聘により、進駐軍慰問を兼ねた戦後初の日米野球親善試合を行なうため来日した。大リーグの下部組織球団ではあったが、待遇はVIP並みの扱いであった。来日の際は羽田飛行場に当時のGHQ経済科学局長だったマーカット少将や田中絹代ら女優約30名が出迎え、歓迎パーティーはマッカーサー自らが主催するなど破格の扱いであった。
一行は東京、大阪でそれぞれパレードを行ない、さらに東京・芝スポーツセンターで行なわれた大歓迎会では2万人もの観衆が詰めかけ、当時の芸能スターも多数参加するなど日本国中挙げての歓迎ムードに包まれた。
遠征結果はシールズの全勝となり、日米間のプロ野球のレベルの違いを改めて見せ付ける結果に終わった。
なお、シールズとの交流は以後も続き、1951年にはオドールの招きで川上哲治、藤村富美男、小鶴誠、杉下茂が春季キャンプに参加している。
[編集] 試合結果
- 第1戦 10月15日 後楽園球場 シールズ13-4巨人
- (エキシビジョンゲーム) 10月16日 神宮球場 シールズ12-0極東空軍選抜
- 第2戦 10月17日 神宮球場(ナイター) シールズ4-0全東軍
- 第3戦 10月21日 西宮球場 シールズ3-1全西軍
- 第4戦 10月23日 甲子園球場 シールズ2-1全日本
- 第5戦 10月27日 中日球場 シールズ13-4全日本
- 第6戦 10月29日 神宮球場 シールズ1-0全日本
- (エキシビジョンゲーム) 10月30日 後楽園球場 シールズ4-2全六大学(延長13回)
[編集] 遠征時のエピソード
- 第2戦は来賓として皇太子明仁、義宮が観戦している。
- 大相撲の横綱・前田山英五郎は場所中に負った怪我の療養中にこの親善試合を観戦、オドール監督と握手している写真を新聞に掲載され「場所を休んで野球観戦とは何事か」と批判を浴び、これがもとで引退した。
- 日本で始めてコーラ(コカ・コーラ)を一般に発売したのがこの親善試合であった。
- シールズのユニフォームは左胸に小さく「SEALS」のロゴが入るタイプで、この後日本のプロ野球チーム(特に遠征直後、日本プロ野球が2リーグに分裂した際に新設された球団)はこぞってこのスタイルを取り入れている。
[編集] 関連項目
- 与那嶺要 - 来日前に所属していた。