サニーデイ・サービス
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サニーデイ・サービス(Sunny Day Service)は、日本のロックバンド。
パンクバンドとして結成され(半分シャレで、精神的に「パンクバンド」という意味に推測される)、音楽性を変化させつつ1995年メジャーデビュー。デビューミニアルバムはフリッパーズ・ギターの影響色濃く、自らも「フリッパーズフォロワーですよ」とうそぶくほどであったが、初のフルアルバム『若者たち』ははっぴいえんどを髣髴とさせるフォークロックを1990年代のサンプリング的解釈で表現した作品となり、以後1990年代の新しいアコースティックバンドとして確かな実力を発露。評価を得る。
惜しまれながらも2000年12月14日「LoveAlbumツアー」最終日をもって解散。なお、シングルのほとんどがバンドメンバーの意向により絶版になっている。
その音楽面では「マンチェ(マッドチェスター、セカンドサマーオブラブ)」の影響から、広くロック、ポップス、ダンス、映画音楽まで取り入れてのパンク〜ネオアコ的なD.I.Y表現を出発点としており、インディー期から「渋谷系」の新しいバンドとして活躍し始めた。ただしムーブメント当初の渋谷系というと60年代、フランス映画、ネオアコ、フラワームーブメント、後に言われるレアグルーブやフリーソウルを音楽の要素にしていたが、少し遅れて登場し、「最後の渋谷系」「究極の渋谷系」ともキャッチフレーズがつけられたサニーデイ・サービスは、それらの延長線上にありながら新境地を求めてフォークロックをネオアコ以降的表現を行うなど、より自分たちらしさを模索。そうした楽曲のセンスは、多くの「フォーク=四畳半アパート」なイメージとは一線を画し、渋谷系以降らしい現代の若者も憧れる「1970年代フォーキー」と形容されるスタイルとして認められ、1990年代半ばには多くの同様の個性を持ったバンドが共に表舞台へ出るのに一役買った。 この辺りの音楽センスが由縁で、サニーデイ・サービスは時にはそれ以前の渋谷系からはみ出た存在でもあり「下北沢系」と呼ばれる一面も持っていた。 とりわけメジャーデビュー後ライブ活動が増えて行くにしたがって、下北沢のライブハウス「Club Que」がメンバーやファンたちにホームグラウンドとして親しまれるようになり、渋谷・下北沢を股にかけたバンドと考えられる。
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[編集] メンバー
- 曽我部恵一(そかべ けいいち、1971年8月26日- )- ギター、ボーカル。香川県坂出市出身。立教大学中退。
- 田中貴(たなか たかし、1971年6月25日- )- ベース。愛媛県今治市出身。成蹊大学中退。
- 丸山晴茂(まるやま はるしげ、1970年11月6日- )- ドラム。東京都東村山市出身。
[編集] サポートメンバー
- 新井仁(g)
- 高野勲(key)
- 細野しんいち(g&key)
- 小田島等 - アートワーク
[編集] 略歴
- 1992年 - 大学在学中、4人組グループとしてサニーデイ・サービス結成。結成当初はパンクバンドだった。曽我部、田中はこれ以前にロックンロール・スターというバンドを組んでいたが、仲間内の軽いノリのバンドだったので、曽我部はあまり触れて欲しくないらしい。
- 1994年 - インディーズでの活動を経て、シングル『星空のドライブep』でメジャーデビュー。モロ渋谷系、特にフリッパーズ・ギターのラストアルバム同様にマッドチェスタームーブメントからの影響で作られたサウンドであったことから、「悪い意味でのポスト・フリッパーズ・ギター」と評されるなど、その音楽性はあまり評価されることはなかった。メジャー2枚目の「コズミックヒッピーep」を発表後、メンバー二人が脱退。曽我部、田中が残る。バンド名は曽我部が好きな英レーベル「サラ」の「アナザー・サニーデイ」というグループをヒントにつけられた。
- 1995年 - 元エレクトリック・グラス・バルーン(後述のSUGIURUMNこと杉浦英治がフロントマンで同じMIDIのバンド)の丸山が加入。念願のドラマーが加わった3ピースバンドとなる。ちなみに「新しいドラムを入れるとき、何故もっと上手い人を入れなかったのか?」という問いに対して、「それ以上に二人は演奏が出来なく、当時はとても上手い人を入れたつもりであった」と曽我部は語っている。
1stアルバム『若者たち』をリリース。渋谷系とは打って変わって、はっぴいえんどのオマージュとも言えるような1970年代のフォーク・ロックを展開する。演奏の拙さと、非常に青臭く世界観を作り込んだスタイルの歌詞という組み合わせで、彼らの後の作品に比べると洗練されていないが、中心人物・曽我部恵一の素養がそのまま名刺代わりと言わんばかりに放り込まれており、それこそがこのアルバムの魅力であると語るファンも少なくない。
彼らを語るのに「はっぴいえんど」という形容が未だに持ち出される理由としてサウンド以上に、このアルバムでの詞のスタイルが「はっぴいえんど」時代の松本隆の強い影響から生まれていることが挙げられる。さらに「はっぴいえんど」が1stアルバムで歌詞カードに影響を受けた作家やミュージシャンの名前を書き連ねたのと同様に、『若者たち』の歌詞カードにも最後のページに影響を受けた1970年代の青春マンガの題名が列挙されていたことも「はっぴいえんど」を引き合いに出される要因である。 - 1996年 - 2ndアルバム『東京』をリリース。前作と同じくはっぴいえんどを基調としているものの、サニーデイ独自の世界観を上手く確立している。
- 1997年 - 3rdアルバム『愛と笑いの夜』をリリース。その9ヶ月後に早くも4thアルバム『サニーデイ・サービス』をリリース。演奏は相変わらず上手くないものの、メンバー三人にしか出せないグルーヴを生み出し、サニーデイ独自のバンドサウンドを完成させる。また、このアルバムの先行シングルであった8thシングル『NOW』は、ロッテ・ガーナチョコレートのCMソングになったことも手伝い、サニーデイ史上最高のセールスを記録した。一番バンドとしての状態が良かった時期であり、メンバーも一番仲が良かったらしい。
- 1998年 - 5thアルバム『24時』をリリース。様々なタイプの楽曲が収録されており、12cm+8cmCD2枚組で80分を超える大作で、非常に混沌としている。このアルバムと次のアルバムまでは、バンドサウンドを完成させたことによるマンネリがバンド内で生まれており、後に曽我部は「『とりあえず現状を全部入れておくので、よろしく』といった感じで作った」と語っている。
- 1999年 - 6thアルバム『MUGEN』をリリース。前作の反動か、全10曲収録と前作に比べると少なめ。前作ではサニーデイの世界観を壊そうとしているようにも感じられたのに対して、このアルバムでは原点回帰しており、過去のサニーデイをその当時のサウンドプロダクトで作ったようなものとなっている。曽我部曰く「最後のプレゼント」。初期と比べると、大分サウンドが成長しているものの、このアルバムから「三人が鳴らす必然性」が失われ始めているようにも感じられる。この頃から、バンド内に亀裂が生じ始め、丸山がレコーディングにあまり来なくなったという。
- 2000年 - 13thシングル『夜のメロディ』をリリース(所属レコード会社内に作ったレーベル「Q&A」の最初のリリース)。14thシングル『魔法』では、SUGIURUMNを共同プロデューサーに迎え、本格的に打ち込みへ挑戦。その後リリースされた7thアルバム『LOVE ALBUM』は半数以上が打ち込み曲であり、今までのサニーデイにはなかった新境地的な内容であったが、「打ち込みはやらない」というバンドの約束事を破ってしまったことになり、結果としてバンドの終焉を決定付ける要因となってしまう。この頃、丸山は全くと言っていいほどレコーディングに来ておらず、生のドラムの曲では当時サポートメンバーであったパーカッショニストがほとんど叩いており、実質彼はこのアルバムには参加していない。曽我部はこのアルバムのツアーでバンドの良い状態を取り戻せれば、と思っていたらしいが、彼自身がライブのリハーサルに来ないなど、良い方向に傾くことはなく、ツアー中に解散を発表。12月14日 新宿リキッドルームでのラストライブをもって解散する。最後の演奏曲はアンコールに応え、季節外れの「サマー・ソルジャー」だった。
[編集] ディスコグラフィ
[編集] シングル
- S.F.colour is born(大学の先輩である新井仁のバンドN.G.THREEとの7インチ/スプリット盤) ※インディーズ
- COSMO-SPORTS ep(1993年) ※インディーズ
- 星空のドライブep(1994年7月)
- コズミック・ヒッピーep(1994年11月)
- 御機嫌いかが?/街へ出ようよ(1995年3月)
- 青春狂走曲(1995年7月)
- 恋におちたら(1995年11月)
- ここで逢いましょう(1996年7月)
- サマー・ソルジャー(1996年10月)
- 白い恋人(1997年2月)
- 恋人の部屋(1997年5月)
- NOW(1997年9月)
- さよなら!街の恋人たち(1998年5月)
- 今日を生きよう(1998年9月)
- スロウライダー(1999年8月)
- 夢見るようなくちびるに(1999年9月)
- 夜のメロディ/恋は桃色(2000年5月)
- 魔法(2000年7月)
[編集] オリジナルアルバム
- SUPER DISCO(1994年) ※インディーズ
- 若者たち(1995年)
- 東京(1996年)
- 愛と笑いの夜(1997年)
- SunnyDayService(1997年)
- 24時(1998年)
- MUGEN(1999年)
- LoveAlbum(2000年)
- FutureKiss(2000年)
[編集] 編集盤
- Party Love Album(2000年) - リミックスアルバム、ライブ会場のみの限定販売
- Best Sky(2001年)
- BEST FLOWER -B SIDE COLLECTION-(2001年)
[編集] その他音源
- 蜂と蜘蛛(1998年のツアーパンフレットに付属していたボーナスシングル)
- まわる花(未発表曲)
- 恋人たちのワルツ(未発表曲)
- 真昼の出来事(未発表曲、のちに曽我部恵一のソロ作に収録)
[編集] 映像作品
VHSのみ。1998年以降のPVはパッケージ化されていない。
- TEENAGE FLASHBACK VOL.1(1996年)
- TEENAGE FLASHBACK VOL.2(1998年)
[編集] エピソード
- インディーズ時代、友人のバンドが出演するライブを観に行った曽我部は、酔っ払ってしまった挙句、見ず知らずの男性にカラんだ。このカラまれた男性こそが、後にディレクターとなり活動を支えた渡邊文武である。カラみながらも、たまたま持参していたCDを渡したことがメジャーデビューへの足がかりとなった(出典:FM STATION 1995年3月27日号)。
- 曽我部恵一が考案したオリジナルカクテル「黄金」は、下北沢の「ClubQue」の名物だが、味はとても甘い。