カルロ・ガンビーノ
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カルロ・ガンビーノ | |
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1930年代に撮影されたマグショット
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生誕 | 1902年8月24日 イタリアシチリア州パレルモ県カッカモ |
没年 | 1976年10月15日(74歳) アメリカ合衆国ニューヨーク州マサピークア |
職業 | 労働問題コンサルタント(自称) |
配偶 | 有り。 |
カルロ・ガンビーノ(Carlo "Don Carlo" Gambino, 1902年8月24日 - 1976年10月15日)は、ニューヨークのイタリア系マフィア(コーサ・ノストラ)のボスの一人。配下のガンビーノ一家を全米最強最大のマフィア一家に育て上げた。1960年代のマフィアの全国委員会の議長をつとめた大ボス。後年は物静かな大ボスというイメージだったが、若いころは冷血非道な殺し屋だった時代もあるという。
ガンビーノは、シチリア島のパレルモ近郊のカッカモ(Caccamo)に生まれた。10代ですでにマフィアの一員となり、1921年にシチリアのマフィアのボスヴィト・カッショ・フェロ (Vito Cascio Ferro)の命により一家でアメリカに密航し、ニューヨークにいた母方のカステラーノ家のつてを頼ってワインやオリーブ油、アンチョビなどを密輸した。その後、一度シチリアに戻ってカッシオ・フェロに仕えるが、ベニート・ムッソリーニとチェーザレ・モーリのマフィア弾圧を避け、1929年に密航者として再びアメリカへ渡る(このため、ガンビーノは生涯アメリカの市民権を得ることはできなかった)。その後ジョー・マッセリアの配下となり、ソルジャーとなる。禁酒法時代にあって、酒の密売で利益を上げた。1932年、いとこのポール・カステラーノの妹カタリーネと結婚(二男一女をもうける)。
マッセリアとサルヴァトーレ・マランツァーノが殺害され、ニューヨークがラッキー・ルチアーノによって五大ファミリーに分割されると、ブルックリン地区を仕切ったヴィンセント・マンガーノの配下となる。
第二次世界大戦中には闇市の配給スタンプを価格管理オフィスから盗み、それを転売していた。1回の転売で100ドルの利益を上げていたという。
1951年、副ボスだったアルバート・アナスタシアがマンガーノを殺してボスに納まった。1957年6月17日にはマンガーノの前にボスを務め、マンガーノがボスになってからはアンダーボスとなっていたフランク・スカリーチェが殺害され、ガンビーノはアンダーボスとなる。そして、ガンビーノはジェノヴェーゼ一家のボス・ヴィト・ジェノヴェーゼと組んで、ジェノヴェーゼのライバルだったアナスタシアを同年10月25日に暗殺し、その論功により3年間の観察期間を経て、一家のボスに据えられた。ガンビーノはアナスタシアのあとを継ぐと、一家内の争いを避けるためアナスタシアの側近のアニエロ・デラクローチェをアンダーボスにした。
だがガンビーノはジェノヴェーゼの傀儡に甘んじることなく、フランク・コステロ、マイヤー・ランスキー、さらには子供同士が結婚しているルッケーゼ一家のボスのトーマス・ルッケーゼらと組んで今度はジェノヴェーゼを麻薬取引の容疑で逮捕させる陰謀に成功した。またプロファチ一家のボスには傀儡のジョゼフ・コロンボを据え、自分の命を狙ったボナンノ一家のボス、ジョセフ・ボナンノを引退に追い込んで、ガンビーノ一家はニューヨーク最強の地位を確立した。最後に残っていたジェノヴェーゼ一家についてもジェノヴェーゼの死後ボス代行となっていたトーマス・エボリを暗殺し、後釜に盟友のフランク・ティエリを据えるに及んでガンビーノの地位は絶対的なものとなった。1960年代から1970年代にかけてニューヨークの5大ファミリーを束ねる存在であった。
ガンビーノの賢明な支配の下、一家は拡大を続け、構成人員は正式メンバー以外の関係者を含めると数千人に達し、全米最大を誇った。この時代、マフィアは年間5億ドルは儲けていたという。ガンビーノ自身、輸送産業を支配していた中心人物。彼はボスになると今までの違法ビジネスのほかに建築業、運輸業、食品卸業など合法ビジネスにも手を出し、莫大な利益を手にした。
ガンビーノ自身は麻薬ビジネスには反対していたという。シチリアのマフィア、アンジェロ・ラ・バルベーラがアメリカにヘロインを持ち込もうとしたときには「私はお前を尊敬してるし、大事に思っている。しかし、アメリカに麻薬を持ち込むのなら、殺さなければならないだろう」とメッセージを送っている。
ガンビーノはまた、イタリア系アメリカ人公民権同盟を組織したりしていたコロンボの派手な行動を快く思っていなかった。そのため、1971年6月28日のコロンボ狙撃(意識不明のまま1978年に死亡)で中心的な役割を演じたと考えられている。
ガンビーノ自身は小柄で地味な服装の目立たない、唯一鷲鼻が特徴的で物静かな男であった。生活はつつましく、家庭を大事にしており、近所の露店でよく買い物をした。ジョセフ・ボナンノはガンビーノのことを自著の中で「リスのような弱虫で、(当時のボスの)アルバート・アナスタシアに殴打されても薄ら笑いを浮かべていた」と中傷している。しかし20年弱の彼の支配の間に、その一家は全米で最強の一家となった。まずはラッキー・ルチアーノ以降最も有力なボスと言えるだろう。
1971年に妻を癌で亡くして以降体調を崩し、1976年に心臓病により自宅で安らかに死去。死ぬ1年近く前に実質的なボスの座をカステラーノに譲っていた。その当時デラクローチェは脱税で刑務所に入っていた。クイーンズ区のセント・ジョーンズ墓地に埋葬された。葬儀には千人以上が参列したが、その中には一般市民のほかに警察関係者、政治家もいたという。ガンビーノの死は古きゴッドファーザーの時代の終結でもあると言われている。
ガンビーノは死の直前、後継ボスとして一家内で最大の勢力を誇る副ボスのアニエロ・デラクローチェではなく、いとこのポール・カステラーノを指名した。その時点では分からないことであったが、10年後にデラクローチェの後を継いだジョン・ゴッティによってカステラーノは暗殺され、一家の運命は下降線をたどることになったのである。
[編集] 関連事項
- フランク・シナトラ - カルロ・ガンビーノと交流があったとされる。
[編集] 外部リンク
- Carlo Gambino
- CARLO "DON CARLO" GAMBINO
- ガンビーノの墓 - find_a_grave.com