ウィンチェスター (イングランド)
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ウィンチェスター(Winchester)はイングランド南部のハンプシャーにある都市。
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[編集] 歴史
[編集] 初期
この地域の歴史はローマ時代以前に遡ることができ、実際には鉄器時代の遺跡もある。ローマ時代にはVenta Belgarumという名前であった。
ローマ支配の終焉後、白い要塞を意味するCaergwinntguicまたはCaergwintwgと呼ばれていたことがわかっている。この名前は、一帯が519年にアングロサクソン人によって征服されるとWintanceastreに転訛した。
[編集] アングロサクソン時代
ウェセックス王ケドワラがワイト島の王アトワルドを打ち負かした後の686年頃、ウェセックス古来の首都としてドーチェスター・オン・テムズの後を継いで、歴史的重要性を持つようになった。首都となった唯一の町というわけではないものの、827年にエグバート王はウィンチェスターを彼の王国の主要都市とした。9世紀半ば、聖スウィトゥンはウィンチェスター司教となった。サクソン・ストリートの計画はアルフレッド大王がレイアウトし、これは今もその痕跡が残っている。十字状に通りを区切るシステムは現在も基本的な都市計画として認められるものである。町は南岸に沿って一連の防御壁とした。アルフレッド大王によって王国の守りとして建てられ、それらはバーフ(burhs)として知られていた。旧市街の境界線が今石の壁のなっている場所で見ることができる(サクソン時代の堀で囲まれた木製防柵)。東西南北に門があり、加えてダーンゲイトと王の門があった。ウィンチェスターは、ウェセックスの首都であり続け、ノルマン征服で首都がロンドンに移った後も数度首都になった。
[編集] 中世と近世
1141年に起きたひどい大火で町の斜陽に拍車がかかった。しかし、ウィンチェスター司教ウィリアム・ワイカム(1320年-1404年)が市の修復において重要な役割を担った。彼は現在の大聖堂の構造全ての責任を負い、オックスフォード大学ニューカレッジと関係の深い、パブリックスクールであるウィンチェスターカレッジを創立した。中世の間、市は羊毛貿易の重要な中心地であったが、その後緩やかに勢いは衰えていった。
小説家ジェーン・オースティンは、1817年7月18日にウィンチェスターで亡くなり、大聖堂に埋葬された。ロマン派の詩人ジョン・キーツは、1819年8月中旬から10月までウィンチェスターに滞在した。キーツの詩作『イザベラ』『セント・アンガスズ・イヴ』『ラミア』はウィンチェスターで書かれた。『ハイペリオンの没落』の一部と、悲劇詩『オットー大帝』の5節もここで書かれた。