アンナ (ポーランド女王)
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アンナ(Anna Jagiellonka, 1523年10月18日 クラクフ - 1596年9月9日 ワルシャワ)はポーランド女王。ジグムント1世の娘。1575年にトランシルヴァニア公バートリ・イシュトヴァーン(ステファン・バートリ)を夫に迎え、共同君主となった(在位:1575年 - 1586年)。
ジグムント2世は世継ぎなく没したため、ポーランド貴族はフランス・ヴァロア朝と交渉し、アンリ2世(在位1547年-1559年)とカトリーヌ・ド・メディシスの子アンリ(1551年-1589年)をポーランド王に招請する。 当時はアンリの兄シャルル9世(在位1560年-1574年)がフランス王だった。 このポーランド・ヴァロワ家は2年ともたなかった。 アンリがポーランドへやってくると、ジグムント2世の妹アンナが王妃候補となるが、アンナはアンリより30歳近く年長だった上、アンリはゲイだったので、結婚はなかった。 アンリはポーランドが嫌でパリに帰りたがり、1574年兄シャルル9世死去の報を聞くと無断で城を脱出しフランスに逃げ戻った。 これがフランス・ヴァロア朝最後の王アンリ3世(在位1574年-1589年)である。
国王の蒸発という前代未聞の事態に見舞われたポーランドでは、しばらくアンリに猶予期間を与えた後、1575年アンリの王位失効を宣言する。 アンナとの結婚を条件に後継に選ばれたのはトランシルヴァニア公バートリ・イシュトヴァーン。 彼らはトランシルヴァニアの宮中伯の息子として生まれ、イタリアのパドヴァ大学で学び、ウィーンの宮廷に仕えた後、ハンガリー王サーポヤイ・ヤーノシュ[1]とその息子ヤーノシュ2世[2]のために戦い、1571年からトランシルヴァニア公となっている人物。
1576年3月クラクフにやってきたバートリは、5月1日アンナと結婚し、すぐにポーランド王に戴冠される。 この時アンナはヤドウィガの故事に倣って、Rex(ラテン語で王の意)を称する。 これは自分こそヤギェウォ王朝の正統な後継者であり、たんなる王妃ではないことを表明したものだろう。 しかもアンナは1533年生まれのバートリより10歳も年上だった。 にもかかわらず、アンナは政治にはさほど関与せず、実権は「ポーランド史上最も有能な王」と後に評されるバートリに委ねられた。 既にポーランドは世襲王朝制から選挙王制に移行し始めている上、バートリの実力はすでにトランシルヴァニア公として証明済みだったからだ。
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