アンガウルの戦い
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アンガウルの戦い | |||
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戦争:太平洋戦争 | |||
年月日:1944年9月17日~9月30日 | |||
場所:パラオ諸島アンガウル島 | |||
結果:米国の勝利 | |||
交戦勢力 | |||
大日本帝国 | アメリカ合衆国 | ||
指揮官 | |||
井上貞衛中将 | ポール・ミュラー少将 | ||
戦力 | |||
1個大隊1,400人 | 1個師団 21,000人 |
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損害 | |||
死者1,338人 捕虜59人 |
死者260人 負傷者2,294人 |
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アンガウルの戦い(Battle of Angaur)は第二次世界大戦におけるパラオ-マリアナ戦役最後の戦い。当時パラオ防衛は第14師団(宇都宮)が担当していたが、アンガウル島防衛に当たっていたのは第14師団配下の宇都宮歩兵第59連隊第1大隊であった。第14師団はペリリュー島守備のため1個連隊(水戸歩兵第2連隊と高崎歩兵第15連隊第3大隊)を割いており、パラオ本島の防衛も行わなければならなかったため、防衛に十分な兵力をアンガウルに送ることができなかった。米軍の侵攻が明白になると、帝国陸軍は現地住民をアンガウル島外へ脱出させようと企図したが間に合わず約200名が取り残され戦闘に巻き込まれることとなった。米軍の目的は爆撃機のための飛行場の建設であった。
9月11日、米軍は侵攻前の空母ワスプ発艦のドーントレスによる予備爆撃及び戦艦テネシーによる艦砲射撃を行った。その6日後の9月17日に米陸軍第81歩兵師団が島の北東及び南西の海岸に上陸した。敷設された地雷による被害や日本軍による水際作戦によって上陸当初はある程度の被害を受けたが、帝国陸軍が補給に苦しんだことと、15倍という圧倒的な兵力差があったため、9月25日には目標としていた丘を占領、9月30日には島を全面占領することに成功した。帝国陸軍の大半は戦死し、島は焦土と化した。米国軍は方針を変更し、結局飛行場は築かれなかった。
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