アブデュルメジト1世
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アブデュルメジト1世(Abd-ul-Mejid I, 1823年4月23日 - 1861年6月25日)は、オスマン帝国の第31代スルタン(在位:1839年 - 1861年)。第30代スルタン・マフムト2世の子。
1839年、父の死により後を継いで即位する。治世前半から中盤はメジト1世自身が才能に長けて改革に対する熱意も強かったこと、名宰相と称されたムスタファ・レシト・パシャの補佐と彼の西欧化改革や近代化への建言もあって、積極的な近代改革に取り組んだ。まず、即位した直後にはムスタファの協力と共にギュルハネ勅令を出した。これにより、行政・軍事・文化・財政・司法・教育の様々な面に対しての改革(タンジマート)を表明したのである。
1840年にはイギリスの調停のもとでロンドン条約を結び、ムハンマド・アリーと和睦する。そしてムスタファと協力してトルコの近代化に務めたが、ロシア帝国のニコライ1世がトルコ領内のギリシア正教徒の保護を理由として1853年、トルコに戦争をしかけてくる。これがクリミア戦争である。当初は強力なロシア軍の攻撃を受けて連戦連敗したが、やがてロシアの進出を恐れたイギリス・フランスのナポレオン3世・サルデーニャ王国などの援助を受けて盛り返し、1856年には勝利した。そして、ムスタファを全権大使として派遣し、パリ条約を結んだ。これにより、トルコの国際的地位を高めたのである。また、この戦争の反省からギリシア正教徒の社会的平等を承認している。
しかし1857年に補佐役のムスタファが死去すると政治に対する関心を失い、改革を取りやめて自身の快楽に対して乱費を行なうようになる。また、晩年にはキリスト教徒に対して寛容策を行なったことがかえって反キリスト教徒的な一派からの不満が上がり、国内各地で暴動が起きてしまう。このような中で1861年、39歳で死去し、後を弟のアブデュルアズィズが継いだ。
アブデュルメジト1世は名君か、それとも暗君かはそれぞれ評価するうえで難しい。しかし、その治世における改革によってトルコがある程度は持ち直したのだから、評価されるべき君主の一人であろう。
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