アゾフ
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アゾフ(ロシア語:Азовアゾーフ;Azov)はロシア連邦南部・ロストフ州の都市。ドン川沿いにあり、アゾフ海までは約6kmと近い。2002年における人口は81,700人。
[編集] 歴史
ドン川の河口は交易上、重要な土地であった。紀元前3世紀頃、ボスポラス王国からきたギリシア人は、ここに殖民都市をつくり、タナイスTanais(ギリシア語で川の意) と命名した。数世紀後、居住地はボスポラス王国のPoleumon王によって焼かれた。その後、ギリシア人の入植者たちは再建に成功したが、西暦3世紀にゴート人によって滅ぼされた。(なお、タナイス(現在Nedvigovka村近辺)は、19世紀中頃から発掘が進められている。)
10世紀に、この地域はスラブ人のTmutarakan王の領域になる。1067年には、キプチャクがこの地域を支配し、地名をazak(低地の意)に変える。現在のアゾフの地名はここから来ている。13世紀から14世紀にかけてはキプチャクハン国が、この地を支配したが、ヴェネツィアとジェノヴァの商人たちは許可を得て、ターナという植民都市(現代のアゾフに位置する)をつくり、そこに定住した。1471年にオスマン帝国の侵攻により、その都市は占領された。そして、テュルク人はアゾフに要塞を建造した。
ドン・コサックは、1637年の夏に、4,000人の兵士と200の大砲を用いて、要塞を攻め、それを占領した。ドン・コサックは、5年間そこを保持していたが、1641年夏より、強大なオスマン軍が要塞を包囲した。しかし、オスマン軍は要塞を陥落させることができず、1642年に撤退した。オスマン軍の撤退後、トルコとの全面戦争を危惧するロシア皇帝は、会議(Zemsky Sobor)を召集し、要塞をトルコに引き渡すことを決定した。ドン・コサックは、要塞の防御設備を破壊した後に、そこを退去した。
その後、クリミア・ハン国に打撃を与えるために、ロシアのピョートル大帝がアゾフの再占領を開始した。1695年の攻撃は失敗したものの、1696年に、要塞を再占領した。しかし、大北方戦争最中の1711年にピョートル大帝はオスマン軍に包囲され、解囲の交渉の際にアゾフ要塞のトルコへの返還に同意した。
第一次露土戦争におけるロシア帝国の勝利により、キュチュク・カイナルジャ条約(クチュク・カイナルジ条約)が結ばれ、アゾフはロシア領となった。