がしゃどくろ
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がしゃどくろは日本の妖怪。戦死者や野垂れ死にした者など、埋葬されなかった死者達の骸骨や怨念が集まって巨大な骸骨の姿になって、夜中にガチガチという音をたててさまよい歩き、生きている人を見つけると襲いかかり、握りつぶして食べると言われるが[1][2]、そうした描像は現代になって創作されたものである。
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[編集] 由来
1970年前後に刊行された通俗的な妖怪事典の類の中で、その著者らによって創作された妖怪で、柳田国男の著書でも言及されておらず、各地の伝承にも現われていない。
妖怪探訪家・村上健司の説によれば、書籍『世界怪奇スリラー全集2 世界のモンスター』(秋田書店、1968年)での斎藤守弘による記述が初出とされ[3]、妖怪研究家・京極夏彦も同様に斎藤守弘をがしゃどくろの創作者と述べている[4]。後に水木しげるが『妖怪事典』や『日本妖怪大全』で取り上げ、広く知られるようになった。水木が描いたがしゃどくろの姿は、浮世絵師の歌川国芳作の「相馬の古内裏」が基になっている。一方で佐藤有文の著書『日本妖怪図鑑』では、模写によるイラストではなく「相馬の古内裏」そのものが挿絵として使用されている[1]。
また『妖怪事典』・『日本妖怪大全』中では、『日本霊異記』などによると、備後のある所に住む男が、夜の野原で「目が痛い」と不気味な呻き声を聞き、次の朝にそこで髑髏を発見する。その目の穴の部分から筍が突き出ていたのでそれを取り朝飯を供えた所、「がしゃどくろ」から恩返しと受けたと言われる。そのためこれをがしゃどくろと混同する向きもあるが、既に述べた通り、がしゃどくろは20世紀後半になって生み出されたものであり、一方奈良時代に書かれた日本霊異記の話は仏教的な因果応報を説くもので、がしゃどくろとの関連は無い。
[編集] 参考
[編集] 相馬の古内裏
江戸時代後半に読本作家の山東京伝によって書かれた『善知烏安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)』により歌川国芳が描いた浮世絵。
『善知烏安方忠義伝』のあらすじは次の通り。承平天慶の乱(935年~941年)で朝廷に反抗して新皇を称した平将門が討ち取られた後、その娘の滝夜叉姫(たきやしゃひめ)は、父の遺志を実現するため兵を集め、妖術を用いて妖怪どもを操る。大宅太郎光国(おおやたろうくにみつ)という勇士がこれを討伐しようとして、滝夜叉姫の繰り出す妖術に苦しめられながらもついに勝利する。
「相馬の古内裏」は、この物語の中の、滝夜叉姫が呼び出した骸骨の妖怪が大宅太郎光国に襲い掛かる場面で、原作では等身大のたくさんの骸骨が現われるところを、歌川国芳は1体の巨大な骸骨として描いている。ヨーロッパの医学書の骨格図に基づいた非常に写実的な骸骨は、それまでの浮世絵には無い凄みを画面に与え、本作品を国芳の傑作の一つたらしめている。