平惟仲
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平 惟仲(たいら の これなか、天慶7年(944年) - 寛弘2年3月14日(1005年4月25日))は、平安時代中期の公家。桓武平氏平高棟流従四位上(贈従三位)美作介平珍材の長男。母は備中国青河郡郡司の女。同母弟に生昌。従二位、中納言、大宰権帥。
今で言う「現地妻」の子として生まれた惟仲は、後に弟の生昌と共に都に上り、大学寮に入り、20歳の時(応和4年、改元して康保元年、964年)に文章生となり、その翌年(康保2年、965年)には刑部少丞、続いて右衛門少尉兼検非違使として官僚への道を歩み始める。順調な出世の背景には祖母の藤原元姫(藤原菅根の娘・中納言平時望室)が、女官として宮中に出仕して冷泉・円融両天皇の養育係を務めていた経歴によって、外戚である時の摂政藤原伊尹との関係を持ったことが大きいとされている。
それから、美作・筑後・相模・肥後の受領を歴任したが、その勤勉振りを伊尹の弟である摂政藤原兼家に気に入られたことから兼家の家司となり、永延元年(987年)には右少弁→右中弁と弁官の要員に抜擢され、同僚の藤原有国と共に兼家の耳目として活躍する。
その後、989年(永延3年、改元して永祚元年)には、左中弁から右大弁へと弁官の高位に昇進し、その翌年(永祚2年/、改元して正暦元年、990年)の兼家死去の際には長男の道隆を後継に推挙して彼からも厚遇され、正暦3年(992年)には、閣僚の一員である参議にまで昇進すると言う、地方出身者としては異例とも言うべき栄達を成し遂げた。また、この時期に、一条天皇の乳母で、兼家の異母妹にして、彼の次男道兼の前妻の藤原繁子と結婚した。
更に、正暦5年(994年)には、弁官の首座である左大弁も兼務するまでになるが、長徳元年(995年)の道隆死去の後には、中関白家衰退の予兆を嗅ぎ取り、道隆の末弟の道長に接近し、長徳2年(996年)に道長の閣員として権中納言に昇格、その翌々年の長徳4年(998年)には、生涯の極官である中納言にまで到達した。
翌年(長徳5年、改元して長保元年、999年)、一条天皇の中宮定子の中宮職の長官である中宮大夫を兼務するも、落ち目の中関白家と関わる事を嫌って、わずか半年で辞任する(この後、定子の世話を任された弟の中宮大進平生昌が、清少納言に色々と物笑いの種にされているのが『枕草子』に記されているが、これには中関白家を見限った惟仲に対する清少納言の怒りも込められている)。もっとも、藤原行成の『権記』には、定子の死後にその葬儀を仕切ったのは専ら惟仲であったと記されており、その意図は不明であるとしか言いようが無い。
長保3年(1001年)、かつての同僚で、大宰大弐を勤めていた藤原有国の後を受けて、中納言兼務の大宰権帥(黒板伸夫の研究によれば、実際に任じられたのは大宰帥であったとされる)として大宰府に赴任し、歴代の権帥や大弐が手を焼いた宇佐神宮の神人達の支持も取り付けるなどの手腕を発揮した。その翌々年の長保5年(1003年)には従二位を叙される栄冠に浴する。しかし、宇佐神宮内の反惟仲派との衝突で訴えられたのが元で、寛弘元年(1004年)の12月に大宰権帥を解任され、その後病に伏し、翌寛弘2年3月14日(1005年4月25日)に大宰府で逝去した。享年61(この後、荼毘に付された惟仲の遺骨を弟の生昌が大宰府から都に持ち帰った事が、『御堂関白記』や『小右記』に記されている)。
地方出身でありながら、その身一つで都に上り、勉学で磨いた才覚を武器に中央政界を渡り歩き、兼家、道隆、そして道長と言った実力者達に重用され、遂には従二位中納言にまで上り詰めたその姿は、当時としては正に異例とも言うべきもので、それだけ惟仲の異才ぶりが、当時の世論の耳目を集めていたとも言えよう。