藤原有国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原 有国(ふじわら の ありくに、天慶6年(943年)-寛弘8年7月11日(1011年8月12日))は、平安時代中期の公卿。初名は在国。字は藤賢。大宰大弐藤原輔道の次男。母は源守俊の娘(『公卿補任』)とされる。妻橘徳子(橘仲遠の娘)は一条天皇の乳母であった。
藤原真夏の子孫(後の日野流)に属する。受領であった父とともに地方を転々とするが、後に文章生となり菅原文時の門下となる。後に慶滋保胤・平惟仲・藤原惟成らとともに勧学会を組織した。康保4年(967年)に東宮雑色となり、皇太子憲平親王(冷泉天皇)に退位後まで長く仕えた。そこで外戚の藤原兼家の知遇を得て、後にその家司となる。貞元2年(977年)に従五位下に叙せられ、翌年には石見守に、永観2年(984年)には越後守となった。
藤原兼家が摂政となると、寛和2年(986年)に左少弁兼蔵人として呼び戻され、翌年右中弁となり、更に平惟仲に同職を譲って左中弁に転じた。兼家が在国と惟仲を指して「左右のまなこ」と評したのはこの時期のことである。永祚元年(989年)には正四位下右大弁となり更に勘解由長官を兼ねた。翌正暦元年(990年)5月に蔵人頭となる。
その頃、藤原兼家は後継者について悩み、藤原在国と平惟仲を招いて意見を求めた。惟仲は長男の藤原道隆を推挙したが、在国は先の寛和の変で花山天皇を退位させて、一条天皇の即位・兼家の摂政就任に貢献をしたのは次男の藤原道兼であるとして道兼の擁立を勧めた。程なく兼家は道隆を後継者として選んで病没した(『江談抄』)。この経緯を知った道隆は深く在国を恨み、その年の8月に在国を従三位に叙して、わずか在任3ヶ月で要職である蔵人頭を強引に退任させた。そして翌年には秦有時殺害容疑で除名処分を受けて朝廷を追われてしまった。翌年には復帰を許されるが、非参議の勘解由長官のまま数年を過ごした。
長徳元年(995年)、道隆・道兼の没後に政権を握った藤原道長は宋との交易拡大と西海道の再建政策実施のために在国を大宰大弐に任じた。これ以後、有国は道長の家司として行動するようになる。当時の大宰帥敦道親王は遥任であったために、大宰府における九州統治は在国に一任された。翌長徳2年(996年)、道隆の嫡男内大臣藤原伊周が、花山法皇に矢を射掛けたとして大宰権帥に左遷された(長徳の変)が、在国はこれを厚遇して、後に道長の側近であるにも関わらず道隆の外孫である敦康親王の後見を務めるきっかけとなった。在国が有国と改名したのはこの年のこととされている。また、この年に正三位に叙せられ、2年後には大宰大弐兼務のまま弾正大弼に就任した。
長保5年(1001年)、平惟仲の大宰帥就任に伴い帰京して、従二位参議となり、寛弘7年(1010年)には修理大夫を兼務している。その頃有国は慶滋保胤の出家後に中断されていた勧学会を再興する。だが、寛弘8年(1011年)に69歳で没した。
藤原惟成と並んで文章に秀でて、藤原兼家政権下では長く弁官を務めた有能な事務官人であった。