藤原繁子
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藤原繁子(ふじわらのしげこ/はんし、生没年不詳)は、平安時代中期の女官。右大臣藤原師輔の娘だが、母は不詳。一条天皇の乳母。関白藤原道兼及び中納言平惟仲の妻で、藤原尊子(一条天皇女御)の母。
初め姪にあたる藤原詮子(円融天皇女御)の女房として仕え、詮子の産んだ懐仁親王(後の一条天皇)の乳母となった。その後、藤原道兼と結婚して永観2年(984年)に娘尊子を産んだが、道兼は尊子の誕生に際しても「何ともおぼさず」(『栄花物語』四)と冷淡な反応だった。寛和2年(986年)一条天皇が即位すると繁子も典侍に任ぜられ従三位に叙され、藤三位(とうのさんみ)あるいは藤典侍(とうのないしのすけ)と呼ばれるようになった。長徳元年(995年)に夫道兼と死別。長徳4年(998年)に尊子は一条天皇の後宮に入るが、実際に世話したのは平惟仲だった(『栄花物語』三)。長保2年(1000年)に尊子は女御宣下を受けたが、その際繁子は勅使となった藤原行成と諍いを起こしている(『権記』8月20日条等)。その後惟仲と再婚し、長保3年に夫惟仲の大宰帥就任に伴い、繁子は典侍を辞任して夫と共に大宰府に下向した。寛弘元年(1004年)惟仲とも死別して帰京。一条大路の北に好明寺を建ててそこで余生を過ごした。好明寺には甥にあたる藤原道長もたびたび訪れ、繁子に何かと援助を行うなど気遣いをみせている。