国鉄143系電車
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143系電車は、1977年(昭和52年)に登場した日本国有鉄道の直流用電車である。
国鉄143系電車 | |
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クモヤ143-20(松戸) |
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営業最高速度 | 100km/h |
全長 | 20,000mm |
全幅 | 2,800mm |
全高 | 4,100mm |
車両重量 | 46.0t |
軌間 | 1,067mm |
電気方式 | 直流1,500V |
編成出力 | 400kW(/両) |
歯車比 | 17:82 (4.82) |
駆動装置 | 中空軸平行カルダン駆動方式 |
制御装置 | CS44形 |
ブレーキ方式 | 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ・抑速ブレーキ・直通予備ブレーキ・耐雪ブレーキ・手ブレーキ |
保安装置 | ATS-B形、ATS-Sn形、ATS-P形、ATC6形 |
備考 | 保安装置はクモヤ143形装備のものを掲載 |
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目次 |
[編集] 概要
旅客用でない新性能単独電動車 (1M) 方式の系列で、1967年(昭和42年)に登場したクモユ141形のシステムをベースに、発電ブレーキ、抑速ブレーキを付加したものである。主電動機は端子電圧750V定格のMT57A (100kW) で、4個のうち2個ずつを永久直列接続とし、直並列つなぎ替えを可能にしている。
台車は床下スペースの確保のため、踏面ブレーキ片押し式のDT21Cである。
[編集] クモヤ143形
クモヤ143形は、首都圏地区のATC化に対応し、また老朽化したクモヤ90形の代替として、1977年に登場した直流用事業用車(牽引車)である。出自の違いにより、0番台、50番台の2番台区分が存在する。
[編集] 0番台
1977年から1980年(昭和55年)までに21両が製造され、浦和電車区・品川電車区をはじめとした首都圏の通勤路線を受け持つ車両基地に配置された。製造の状況は次のとおりである。
- 1976年度(4両)
- 1977年度(8両)
- 近畿車輛(4両) - 5~8
- 日立製作所(4両) - 9~12
- 1979年度(9両)
- 近畿車輛(6両) - 13~18
- 日立製作所(3両) - 19~21
国鉄分割民営化に際しては21両全車が東日本旅客鉄道(JR東日本)へ継承された。このうち、3は1992年(平成4年)に新幹線対応(標準軌・交流)のクモヤ743形へ改造された。また、2004年(平成16年)にはE491系の導入に伴い、17と18が初の余剰廃車となったが、現車は東大宮と新秋津にそれぞれ訓練用として残されており、解体はされていない。
各車両基地での入換作業や、最寄駅との間で社員輸送などを行うことが多いが、本来の牽引車として最も稼働率が高いのは川越車両センター所属の11で、主にATCのない209系川越・八高線仕様車が定期検査で東京総合車両センターに入出場する際の先頭に立っている。 なお、鎌倉車両センターや国府津車両センターなど、ATCを使用する機会のない車両基地に所属する車両は、ATCが撤去された。
一部の車両はブレーキ装置に電気指令式ブレーキ車両との協調対応改造が行われているほか、川越車両センターの11と東京総合車両センター所属車の一部はATC100km/h対応である。
塗色は事業用車標準の青15号で、前面に黄5号の警戒色を施している。なお、国府津車両センター配置の4は、2007年(平成19年)8月に東京総合車両センターにて定期検査施工の際に、湘南色に塗装変更された。
[編集] 50番台
1986年(昭和61年)の荷物輸送全廃にともない余剰となったクモニ143形から、将来のクモハ123形化改造を考慮して改造された。新製車である0番台と異なりATCは搭載していない。外観上は連結器が双頭式となり、前面排障器(スカート)を撤去した以外は種車とほとんど変わっておらず、塗装も湘南色であるなど、いまはなき荷物電車の面影を残す。クモニ143形自体がクモヤ143形をベースに設計されているため基本的に0番台と同一性能だが、交直流電車の制御も可能となっている。JR東日本に2両在籍し、新潟車両センターに51が、松本車両センターに52がそれぞれ配置されている。
新旧番号対照は次のとおりである。改造所はいずれも新津車両所。
- クモヤ143-51 ← クモニ143-4
- クモヤ143-52 ← クモニ143-5
[編集] 関連画像
[編集] クモニ143形
それまで国鉄で荷物輸送に従事していた荷物電車は、旧型車からの改造車が多く、老朽化や併結する旅客車の車両性能向上による高速化の妨げとなっていた。それらの問題を解決するために、荷物電車初の新性能電車として8両が製造された。製造所はいずれも近畿車輛である。
牽引車クモヤ143形を基本とし、単行運転を可能とするため、それまでの国鉄新性能車と異なり1C4M方式となっている。
1978年(昭和53年)には1~5が長野運転所に配属されて信越本線に投入され、1982年(昭和57年)には伯備線電化開業用として6~8が増備されて岡山電車区に配属された。1985年(昭和60年)には、長野配置車は1~3が大垣電車区へ、4・5は長岡運転所へ転出し、それぞれ旧型車を置換えた。
1986年、国鉄の荷物輸送の廃止により用途を失ったが、車齢が浅かったこともあり、6両が旅客車化されクモハ123形に改造されたほか、4・5の2両が牽引車のクモヤ143形50番台に改造され、いずれも現存している。
[編集] クモユ143形
1982年、長野地区の郵便車併結の客車列車の一部が電車化されるのにともない、当時の郵政省所有の郵便車として3両が製造された。製造所はいずれも川崎重工業である。
車体構造や機器配置は前述のクモニ143形をベースに製作され、車体中央には、車内で郵便物を区分するための区分室が設けられている。他の郵便車と同じく、区分室上部には冷房装置(分散式AU13E形×3基)が設けられていた。
1986年に当時の郵政省が鉄道郵便輸送を廃止したことにともない、登場からわずか4年足らずにもかかわらず、他の郵便車とともに全車が廃車解体された。
[編集] クモユニ143形
1981年(昭和56年)、身延線の新性能化にともない登場した。投入路線の需要から、郵便・荷物合造車として4両が製造されて沼津機関区に配属された。製造所はいずれも近畿車輛である。
1985年3月、身延線の郵便・荷物輸送廃止にともない、全車が長岡運転所(現:長岡車両センター)に転属し、同区の旧型車を置換えた。なお、この際にスノープラウを装備するなどの改造が施された。
1986年11月、国鉄の郵便・荷物輸送が基本的に廃止されることとなったが、外房線・内房線の新聞荷物輸送は道路事情の関係により残されることとなり、それまで両線で使用されていたモハ72形改造のクモユニ74形を置換える形で、全車が幕張電車区(現:幕張車両センター)に転属した。その際スノープラウは撤去された。
登場時は、身延線に同時に投入された115系と同じく、ワインレッド(赤2号)に白帯(クリーム10号)といういわゆる身延色であったが、長岡運転所へのにより順次湘南色に塗り替えられた(ただし、-1のみ幕張への転属前の全般検査を身延色で出場しており、湘南色の時期はない)。幕張電車区へ転属してからは、順次スカ色に塗替えられ、側面の「郵便」表記はなくなった。
1996年(平成8年)12月のダイヤ改正で、房総地区の新聞荷物輸送は合理化のため旅客車両(113系)を用いて行われることになり、1・3は長野総合車両所(現・長野総合車両センター)に転属し、同区で基地内の入換や職員輸送に用いられていたクモヤ90形を置換えた。2は除籍されて大井工場(現・東京総合車両センター)の入換動車となり、4は小山電車区(現・小山車両センター)に転属したが、大宮に留置された後、解体された。
[編集] 旅客列車との併結
上記の荷物・郵便電車は旅客列車に併結されて運転されることも多かった。連結相手は113系、115系などの直流近郊形、165系などの直流急行形であった。そのため歯車比の異なる電車と連結しても協調運転ができるよう構造に工夫がこらされていた。