フレディ・マーキュリー
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フレディ・マーキュリー | |
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1979年のハノーファー公演より |
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基本情報 | |
出生名 | ファルーク・バルサラ |
出生日 | 1946年9月5日 タンザニア・ザンジバル・ストーン・タウン |
死没日・地 | 1991年11月24日(満45歳没) イングランド・ロンドン |
ジャンル | ハードロック ヘヴィメタル プログレッシブロック グラムロック |
職業 | ミュージシャン、作曲家、プロデューサー |
担当楽器 | ピアノ、ギター、キーボード |
活動期間 | 1958年~1991年 |
共同作業者 | クイーン |
影響 | ジミ・ヘンドリックス、ジョン・レノン |
公式サイト | LOL SOS |
フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury, 1946年9月5日 - 1991年11月24日)は、イギリスのロックバンドクイーンのリードヴォーカル。本名は、Farrokh Bulsara(ファルーク・バルサラまたはフレデリック・バルサラ)。
1973年、アルバム『戦慄の王女』でデビュー。その後、ソロ歌手としても活動していた。
1991年11月24日、HIV感染合併症によるニューモシスチス肺炎(旧名・カリニ肺炎)のため死去。45歳。
目次 |
[編集] 経歴
当時イギリス領だった、タンザニアのザンジバル島のストーン・タウンに、パールシー(10世紀頃、ゾロアスター教からイスラム教への改宗を拒否した民族の末裔)の両親の間に生まれた。5歳の頃からピアノを習っていた。イギリス政府のために働く父の仕事上の理由でインドに移り住み、ボンベイ郊外の全寮制の高等学校に通い育った。いわゆる日本で言うところの帰国子女である。その頃から数々のロックバンドを経験し、ピアノとボーカルを担当。一旦ザンジバルに戻った後、1964年に起きた内乱が元で家族揃って渡英。イーリング・アートカレッジに進学し、グラフィック・デザインを学ぶ。 クイーンに参加の当初からしばらくは、同じくメンバーのロジャー・テイラーと、ケンジントン・マーケットで古着屋を経営。 クイーンのデビュー直前、ラリー・ルレックスという名義でソロシングルを発売している。
クイーンの日本での人気を決定付けることになった雑誌『ミュージック・ライフ』の人気投票では、1975年度の10位を皮切りに1976年度から3年連続で1位に輝き、1980年度にはキーボード・プレイヤーとして1位に、1981年度にはボーカリストとして再び1位に返り咲いている。
親日バンドとされるクイーンのメンバー中でも最も親日家で、来日公演時以外にも1986年秋にお忍びで来日して骨董品などを買い求めて行った。伊万里焼コレクターでもあった。新宿二丁目には生前行き着けのバーがあったという(出没!アド街ック天国2007年12月8日放送分より)。来日公演時のMCの半分は日本語だった。ロンドンの自宅には、日本庭園がある。アルバム『バルセロナ』の「La Japonaise」では歌詞の殆どは日本語だった。
80年代半ば、この頃からメディアにはHIVに感染しているのではないか、という憶測が頻繁に飛び交うようになったが、後述の永眠直前まで公式には否定し続けていた。頬にも髭を伸ばすようになったが、これは合併症のひとつであるカポジ肉腫を隠すためともいわれている(ただし、イニュエンドウを発表する頃には口髭まですべて剃っていた)。1990年から1991年には交流のあった人物がエイズにより他界。1991年11月23日、かねてより噂になっていたHIV感染を公表。翌24日、HIV感染合併症のひとつであるニューモシスチス肺炎(カリニ肺炎)により死去。45歳という若さだった。 このため、1987年4月にかれが敬愛していたオペラ歌手、モンセラート・カバリェと録音し、1992年にバルセロナオリンピックの開会式にて2人で歌うことになっていたバルセロナは、ホセ・カレーラスが代役を務めた。
死後、遺言によりクイーンでもっとも売れた曲「ボヘミアン・ラプソディ」の印税をエイズ基金「テレンス・ヒギンズ・トラスト」に寄付。それを受けて再発されたシングルCDはイギリス史上初の同一曲2度の1位を獲得した。
フレディの遺言により、遺体は遺族により火葬され散骨された。その場所は明らかにされていないが、一説によれば、彼の自宅の庭に埋められているともされている。
残されたクイーンのメンバーが中心となり1992年4月20日、イギリス、ロンドンのウェンブリー・スタジアムでフレディ・マーキュリー追悼コンサートがおこなわれた。
2006年10月21日には、ドキュメンタリー映画「フレディ・マーキュリー~人生と歌を愛した男」が公開された。この映画はDVDとして発売されている。
[編集] ミュージシャンとしてのフレディ
初期の自筆のバイオグラフィによれば、ジミ・ヘンドリックス、ビートルズおよびジョン・レノン、ロバート・プラント、ライザ・ミネリなどの名前を、好きなアーティスト、影響を受けたアーティストに挙げており、またクラシックの作曲家(パガニーニ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、オペラ曲)などの名前を挙げることもあった。 クイーンでの担当楽器としてはピアノで、いくつかの例外を除きライブでもプレイした。 クイーンのライブにおいては、タンバリン、シンセサイザー、ギターなども曲によっては演奏した。 スタジオではこのほかにハープシコード、マラカスなどにクレジットされているが、個々の詳細については各アルバムのクレジット参照。
ハード・ロック調の楽曲から、オペラのような楽曲などさまざまな曲調を歌い上げること、正確な音程、幅広い声域(4オクターブとされている)、ライブでの存在感やパフォーマンスなどから、世界最高のボーカリストの一人と評される。一方で、初期にはスタジオでの完璧とも言われる歌唱と対比して、ライブでのフェイクを交えた歌唱とのギャップがあった。中期に入り、ボーカルレッスンによる、声帯に負担をかけにくくしつつもパワフルな歌唱に移行することでボーカリストとしての評価は確固たるものになっていった。 コンサートのオープニングで、歌唱以外での観客への呼びかけをすることにより、その日の喉の調子を推し量っている様子も見受けられ、比較的前半に演奏されることが多かった「愛にすべてを」のイントロでは、ピアノのアドリブを交えつつ、どの音域までスムーズに出せるかどうかといった試みもおこなっていたようである。
1980年リリースの『ザ・ゲーム』まではクイーンの代表曲の多くを作曲した。前述の「ボヘミアン・ラプソディ」だけでなく、「キラー・クイーン」「愛にすべてを」「伝説のチャンピオン」「バイシクル・レース」「愛という名の欲望」などは、クイーンの楽曲の作曲者クレジットが個人名義の時期の、フレディの代表的な作品である。 その後の個人名義での作曲は、過去の焼き直し的な曲もあり、曲数もほかのメンバーとの比率の面で初期と比較して少なくなっていった。
個人名義でのソロアルバムは実質的に1枚しか発表されておらず、後述の『Mr.バッド・ガイ』(1985年リリース)のみである。発売時の日本ではクイーンの人気は1970年代ほどではなく、シングル「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」がノエビア化粧品のCMに使われたものの、全盛期のクイーンのアルバムほどの売り上げではなかった。またCBSからのリリースであったせいか、(クイーンはEMI)死後もしばらくは廃盤になっていた。
他にオペラ歌手のモンセラート・カバリェとコラボーレートして、アルバム『バルセロナ』を発表している。 その後、レーベルの垣根を越えた形で、シングル、未発表音源、リミックスなどを集めた編集アルバムなどがリリースされているが、唯一のオリジナル・ソロ・アルバムは現在でも単体では手に入りにくい。
非公式ではあるが、ジャクソンズとミック・ジャガーのヒット曲「ステイト・オブ・ショック」はフレディが歌ったバージョンも録音されている。また同時期に行ったセッションのなかにはソロアルバム『Mr.バッド・ガイ』に収録された「There Must Be More To Life Than This/生命の証」をマイケル・ジャクソンと共に歌うバージョンとマイケル・ジャクソンがソロで歌うバージョンが音源として残っている。
[編集] デザイナーとしてのフレディ
前述の通り、イーリング・カレッジでグラフィック・デザインを学んだフレディは、初期の自筆バイオグラフィーで以前の職業の欄にイラストレイターと書き記している。ただし、仕事としてイラストを描いていたという記録は確認できていない。
クイーンのファーストアルバムの裏ジャケットには、のちに『オペラ座の夜』の表ジャケットとして知られる、真ん中に図案化したアルファベットのQの文字を配し、一番上に白鳥、その下にブライアン・メイの誕生星座である蟹、Qの両側にはロジャー・テイラー、ジョン・ディーコンの星座である獅子を配し、自身の乙女座からも加えたロゴ・マークをデザインした。 その後、このロゴ・マークは同じデザインで三枚のアルバムまで裏ジャケットに描かれ、『オペラ座の夜』、『華麗なるレース』では若干デザインを変更した形でジャケットを飾っている。次作『世界に捧ぐ』ではレコード盤の真ん中のレーベルのスペースに描かれた。これらのデザイン変更においてフレディ自身がその都度描き起こしたかどうかは定かではない。
アルバムジャケットのコンセプトという観点では、単独でクレジットされているものに『ホット・スペース』のジャケットがある。しかしながら『世界に捧ぐ』のジャケットのようにロジャーがイラストを見つけてきたというようなエピソードが残っている事例を除けば、グループの一員としてフレディの意見が反映されていることは想像に難くない。
[編集] 衣装
初期のライブでは主にザンドラ・ローズがデザインした衣装を着用。1970年代後半のライブでは、レザースーツやタイツが多く使われ、上半身を露出したタイプのものが多い。1980年代に入るとTシャツ、タンクトップなどのシンプルな衣装になった。
[編集] フレディ・マーキュリーと猫
彼は愛猫家としても有名。ロンドン・ケンジントンの自宅、ドイツ・ミュンヘンの別宅で数匹の猫を飼っていた。 アルバム『イニュエンドゥ』収録の「デライラ」は、かれが特に溺愛した飼い猫の「ディライラ」のために作られた曲。歌詞は猫へのメッセージで構成されており、曲中に猫の鳴き声(の真似)が聞こえる。 晩年は猫をプリントしたシャツを着用する写真が多く、イニュエンドゥのPVでも見られる彼のイラストや、「輝ける日々」のPVの彼の衣装(上記、猫プリントシャツ)にも猫が描かれている。
[編集] ソロアルバム
- Mr.バッド・ガイ(1985)
- 日本では2000年代に入ってからクイーンの代表曲となったボーン・トゥ・ラヴ・ユーの初出アルバム。
- バルセロナ(1988) スペインの世界的なオペラ歌手モンセラート・カバリェとのコラボレーション。
- ベスト・オブ・フレディ・マーキュリー(上記2作をまとめ、ボーナス・ディスクを加えた品)
- フレディ・マーキュリー・コレクション 1973~2000(2000)
2006年8月30日には、既発の曲を含め、それらをリミックスした曲も追加収録したCD「ヴェリー・ベスト・オブ・フレディ・マーキュリー」がリリースされた。
[編集] 外部リンク
メンバー |
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フレディ・マーキュリー - ブライアン・メイ - ロジャー・テイラー - ジョン・ディーコン |
オリジナルアルバム |
戦慄の王女 - クイーン II - シアー・ハート・アタック - オペラ座の夜 - 華麗なるレース - 世界に捧ぐ - ジャズ - ザ・ゲーム - フラッシュ・ゴードン - ホット・スペース - ザ・ワークス - カインド・オブ・マジック - ザ・ミラクル - イニュエンドウ - メイド・イン・ヘヴン |
ベストアルバム |
グレイテスト・ヒッツ - グレイテスト・ヒッツII - クイーン・ロックス - グレイテスト・ヒッツIII 〜フレディー・マーキュリーに捧ぐ〜 - クイーン・イン・ヴィジョン - ジュエルズ - ジュエルズII |
ライブアルバム |
ライヴ・キラーズ - ライヴ・マジック - クイーン・ライヴ!!ウェンブリー1986 - オン・ファイアー/クイーン1982 |
映像作品 |
グレイテスト・ビデオ・ヒッツ1 - グレイテスト・ビデオ・ヒッツ2 - オン・ファイアー/クイーン1982 - ラストツアー/クイーン1986 - フレディ・マーキュリー追悼コンサート |