鹿児島城
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鹿児島城 (鹿児島県) |
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大手門跡 |
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通称 | 鶴丸城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 島津家久 |
築城年 | 慶長6年(1601年) |
主な改修者 | 島津吉貴 |
主な城主 | 島津氏 |
廃城年 | 明治4年(1871年) |
遺構 | 石垣、堀、石橋 |
指定文化財 | 鹿児島県史跡 |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯31度35分53.7秒 東経130度33分15.89秒 |
鹿児島城(かごしまじょう)は、鹿児島県鹿児島市城山麓にある城郭である。形式は平山城。別名「鶴丸城」。鹿児島県指定史跡。
目次 |
[編集] 概要
江戸時代の1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城される。前年の関ヶ原の戦いで薩摩国の島津氏は石田三成ら西軍側に属して敗北し、責を負って引退した実父の島津義弘に代わり、義弘の実子で義弘の兄の島津義久の婿養子となっていた忠恒(家久)が新当主となっており、東軍として勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、当時の内城に代わる城として鶴丸城の構築を開始し、1604年(慶長9年)に完成する。
忠恒(家久)の実父の義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していた。家康の薩摩征伐は実施されることなく、薩摩藩は外様大名として存続を許されることとなり、忠恒(家久)の代に鶴丸城が実戦で用いられることはなかった。しかし、数百年後、幕末の薩英戦争の時に義弘の懸念は現実のものとなり、イギリス戦艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど脅威にさらされることになる。
鹿児島は災害の多い地でもあり、また南国でもあったためシロアリ被害もひどく、幾度も焼失・倒壊し、そのたびに建て替えが行われた。1874年(明治7年)に焼失したのちは再建されなかった。大手門との石橋は現存しており、貴重な遺構である。
[編集] 構造
島津氏は中世式の山城を各地に残し、家臣に守らせる外城制度を行っていた。本城である鹿児島城も北に本丸南に二の丸が位置していたとされるが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城であった。そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。ちなみにこの城山は当初「上乃山城」と呼ばれ、初代の城代として島津歳久の孫の常久が任命されて居住していたが、常久が早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が立入禁止区域となった。
また、天守など高層建築は築かれなかったが、これは江戸幕府に対する恭順の意味があったともされる。公称「77万石」の大名の城としては非常に質素な構造であり、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書『薩摩見聞記』で「不思議」と評している。
[編集] 現状
遺構として石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地などが残されている。その石垣には西南戦争の際に出来たといわれる弾痕が多数残っており、当時の激しい戦いを物語っている。
1901年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用され、現在は鹿児島県歴史資料センター黎明館、鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館が建っている。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(97番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。