島津常久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島津常久(しまづつねひさ、天正15年1月18日(1587年2月25日) - 慶長19年5月29日(1614年7月6日))は江戸時代初頭の鹿児島藩家老の一人。日置家の3代当主とされる。父は薩州家出身の島津忠隣、母は島津歳久の長女。
誕生してわずか3ヶ月後の天正15年4月17日(1587年5月24日)の根白坂の合戦で父・忠隣が戦死。残された常久は祖父・歳久の手によって養育された。ところがその歳久も天正20年7月18日(1592年8月25日)、豊臣秀吉の命により自害に追い込まれてしまう。歳久夫人と歳久長女はこの処分を不服とし、常久を擁して祁答院宮之城(現鹿児島県さつま町宮之城)に籠城した。この事態を重く見た細川幽斎と島津義久は新納忠元を使者としてつかわすなど説得を行い、1ヶ月の籠城の末、常久成人の際に旧領を回復するとの条件で開城に至った。
成人後は日置(現鹿児島県日置市)に所領を賜り、島津義久、島津忠恒の信任厚い家臣として活躍。義久の代理としてしばしば江戸で人質役も務めている。これらの功績に対し、鹿児島城の詰めの城である「上之山城」の城主に任命されるが、慶長19年、疱瘡(天然痘)により急逝。享年28。祖父・父の敵と言える豊臣氏の滅亡を目前にして、あまりにも早すぎる最期であった。