鳥飼恒男
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鳥飼恒男 | |
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1932年(昭和7年)4月当時の鳥飼恒男朝 鮮半島羅南にて長男欣一と |
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生誕地 | 鳥取県 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
最終階級 | 陸軍大佐 |
戦闘 | インパール作戦 |
鳥飼 恒男(とりかい つねお)は、鳥取県生まれの軍人。陸軍士官学校(29期)、陸軍大学出身。1930年代は、朝鮮半島茂山(ムサン)、倉吉市での勤務。その後、中国大陸で江寧部隊長に就任。江寧部隊とは、支那派遣軍総司令部が設置した大学出身者を中核とする行政部隊であり、小銃もほとんど装備しておらず、中国側の行政機関と折衝に当たった。
旧制中学出身者に対して、陸軍幼年学校出身者の中には、蔑視するものが多々あったこと、参謀本部で石原莞爾に会った時、机に足を投げ出す横柄な態度で面会されたことなどを親族に伝えている。
太平洋戦争では、インドシナ半島ビルマ方面で、第15軍司令官牟田口廉也中将が建てた最大の作戦だったインパール作戦(ウ号作戦)に参加。1944年3月、第31師団佐藤幸徳師団長隷下第31歩兵団長宮崎繁三郎少将所属中突進隊第138連隊長(陸軍大佐)として出陣。左突進隊は、第31歩兵団長宮崎少将が、右突進隊は第138連隊第3大隊の柴崎大尉が率いていた。
ビルマ方面軍直轄の第31師団河田槌太郎中将の下で第138連隊長として終戦を迎える。最終階級は日本陸軍大佐。一時期、英国軍に抑留されたが、無事帰国。