魔女に与える鉄槌
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『魔女に与える鉄槌』(まじょにあたえるてっつい、羅:Malleus Maleficarum)とは、15世紀にドミニコ会士で異端審問官であったハインリヒ・クラマー(Heinrich Kramer)とヤーコブ・シュプレンガー(Jacob Sprenger)によって書かれた魔女に関する論文。
[編集] 概説
『魔女に与える鉄槌』は1486年にクラマーとシュプレンガーによってかかれ、1487年にドイツで出版された。中世における魔女理解のエッセンスともいうべき本であり、1435年にヨハンネス・ニーダー(Johannes Nider)の『フォルミカリウス』(Formicarius)とならんで中世の魔女関連書の中でもっとも有名なものである。
本書の執筆目的は魔法使いの存在を疑う人々への反駁と魔法使いは男より女が多いことを示すこと、および魔法使い発見の手順とその証明の方法について記すことであった。現代の研究者たちはほとんどがクラマーの手によるもので、シュプレンガーは名前を貸しただけでほとんど内容に携わっていないという点で一致している。
1484年12月5日、教皇インノケンティウス8世は魔女狩りを行うことへのお墨付きを与えてほしいと願ったクラマーとシュプレンガーに対して回勅「スンミス・デジデランテス・アフェクティブス」(Summis desiderantes affectibus:限りなき愛情をもって)によって答えた。クラマーはこの回勅を『魔女に与える鉄槌』の序文として転用している。これによって彼らの著作が教皇のお墨付きを得ているかのような印象を与えることに成功したが、本来この回勅は審問官としての二人の役割を認めるだけのものであった。しかし、教皇の回勅が魔女の存在とその弾劾の必要性を認めたことが、血塗られた魔女狩りの時代を開くきっかけとなった。
クラマーとシュプレンガーは1487年5月9日に『魔女に与える鉄槌』をケルン大学神学部に送付して大学による学術的承認をもとめた。しかしケルン大学は同書を「非倫理的かつ非学問的」であるとして却下。クラマーとシュプレンガーは勝手に「ケルン大学神学部による承認を受けた」として書物を宣伝した。これを受けてカトリック教会では1490年に同書を禁書として、禁書目録に掲載した。
こういったカトリック教会の態度をよそに、同書は魔女狩りのハンドブックとして読まれ続け、1487年から1520年までの間に13版を数えた。1574年から1669年までにさらに16版が印刷された。上記の経緯で(勝手に)挿入された教皇勅書によって、あたかも同書がカトリック教会の承認を受けているという印象を与えつづけることになった。