高島秋帆
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高島 秋帆(たかしま しゅうはん、1798年9月24日(寛政10年8月15日) - 1866年2月28日(慶応2年1月14日))は、江戸時代後期・幕末期の砲術家。名は茂敦。通称は糾之丞、四郎大夫、喜平。号は秋帆。高島流砲術の創始者(流祖)。「火技之中興洋兵之開祖」と号すことを認められた。
1798年(寛政10年)、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれた。当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、自らオランダ語や洋式砲術を学んで、私費で銃器等を揃え1834年(天保5年)に高島流砲術を完成させた。また、この年には、佐賀藩武雄領主鍋島茂義が入門、翌1835年(天保6年)免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上している。
その後、清がイギリスとの戦争であるアヘン戦争に敗れたことを知ると、秋帆は幕府に意見書を提出して1841年6月27日(天保12年5月9日)、武州徳丸ヶ原(現東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。この時の兵装束は筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭に黒塗円錐形の銃陣笠であり、特に銃陣笠は見分に来ていた幕府役人が「異様之冠物」と批判するような斬新なものであった。この演習の結果、幕府からは砲術の専門家として重用され、江川英龍や下曽根金三郎らに師匠として砲術を伝授していたが、幕府から重用されることを妬んだ鳥居耀蔵の讒訴により翌1842年(天保13年)に投獄され、高島家は断絶となってしまった。 武蔵国岡部藩にて幽閉されたが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に高島秋帆に接触し教わっていた。
1853年(嘉永6年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。その後は幕府の鉄砲方、講武所支配及び師範となる。そして、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。1866年(慶應2年)、69歳で死去。
慶応元年に『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した(著者は本間弘武で秋帆は監修)。尚、そのときの「号令」が今日、学校や自衛隊にも受け継がれていると思われているが、「気をつけ」(当時は「気を着け」と表記された)、「休め」、「前へ進め」、「立て銃(たてつつ)」、「担え銃(になえつつ)」等は安政五年に元岡舎圭人なる人物が作った言葉であり高島秋帆が作ったというのは間違いである。但し元岡舎圭人が何者かは未だ判明していない。歩兵が背負った背嚢は当時「ランドセル」と呼ばれ、これが後の世に「小学生」のシンボルとなって親しまれることとなった。また、現代の褐色包装用紙である「ハトロン紙」は当時の紙早合(かみはやごう=紙製弾薬包)の意のオランダ語「パトロン」用紙の系譜を引くもので、当時の「銃文化」が今日の日本人の生活にもかかわっていることが、これらの語からわかる。
なお、東京都板橋区「高島平」は、高島秋帆によって初めて洋式砲術と洋式銃陣の公開演習が行われたことに因んで名づけられたものであり昔からの地名ではない。
秋帆の洋式砲術は、幕末の志士である吉田松陰や坂本龍馬、河井継之助らも大きな影響を受けている。