高坂甚内
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高坂 甚内(こうさか じんない、? - 慶長18年(1613年)8月12日)は戦国時代から江戸時代初期の忍者。苗字は向坂、勾坂(読みは同じ)、向崎(こうざき、こうさき)とも。
武田氏に仕えた甲州流透破の頭領。武田家臣の高坂氏(香坂氏)の出で、一説には高坂昌信の子であるとも孫であるとも言われる。江戸の吉原を仕切った庄司甚内(甚右衛門)、古着市を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と呼ばれた。
徳川幕府は関ヶ原の戦いに勝利し、関東一円の支配に乗り出した。しかし関東には北条氏の残党がまだ残存勢力として残っており、治安を安定させるところまでは手が回らなかった。そのため関東の闇社会に詳しい甚内からの申し出を受け、関東の治安回復の責任者に任命した。
甚内は、北条氏の滅亡後は盗賊に身を落して江戸の町を荒らし回った風魔小太郎とは対立関係にあったため、風魔一党の隠れ家を密告し、慶長8年(1603年)に風魔小太郎は捕縛処刑された。
しかしその甚内も関東一円に散らばる盗賊を糾合し、幕府の治安を脅かしかねない巨大な存在に成長したため、ここに来て幕府は甚内と縁を切り、追討の手を向けた。その後は逃亡を続けたが、10年後の慶長18年(1613年)に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。その際、瘧(マラリア)を煩っていたと言われ、死に際には「瘧さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したという。浅草にある甚内神社では瘧に利益のある神として高坂甚内を祀っている。
高坂甚内の生涯については数多くの俗説がある。剣豪宮本武蔵の弟子であったが破門されたともされるが、前述の高坂昌信の子や孫という出自も含めて信憑性は薄い。また、有名な怪談『番町皿屋敷』ではお菊の父親という設定になっている。
[編集] 参考文献
- 丹野顕 『江戸の盗賊』 青春出版社、21頁。