酒井忠起
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酒井 忠起(さかい ただおき、享保20年(1735年) - 明和4年6月9日(1767年7月4日))は、出羽松山藩の嫡子だった酒井忠英の次男。正室は溝口直温の娘。子は酒井忠夷(長男)、娘(伊東祐政室)。幼名は亀之助。別名、忠躬。山城守。
父・忠英が廃嫡されたため、出羽松山藩3代藩主に就任した酒井忠休の養子となった。初め、兄・酒井忠郷が嫡子となったが夭折したたため、代わって嫡子となった。しかし、実子を後継ぎにしたい藩主・忠休との関係が悪く、家中も2つに分裂して「宝暦騒動」と言われる抗争に発展した。
明和4年(1767年)死去し、出羽松山藩は忠休の次男・酒井忠崇が継承。これに対し、忠起の長男・忠夷の子・酒井忠恕には給米3000俵が与えられ、別家を立てた。