那須資晴
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那須 資晴(なす すけはる、1557年(弘治3年) - 1610年8月7日(慶長15年6月19日))は、下野国の戦国大名。父は那須資胤。妻は結城晴朝の娘。子に那須資景、女子(佐竹義宣妻)。太郎。従五位下。大膳大夫。修理大夫。
天正6年(1578年)、小川台の戦いで父と共に出陣。天正11年(1583年)、父資胤が死去。その直後、佐竹義重と争ってこれを撃退した。天正13年(1585年)には、塩谷義綱攻撃のため薄葉原に進出し、宇都宮氏・塩谷氏の軍を破っている。同年暮れには大関高増による千本資俊暗殺計画を了承して千本氏の勢力を解体した。その後、資晴は佐竹氏や結城氏、宇都宮氏と敵対しながらも北条氏、そして伊達政宗などと手を結び、常に那須軍は寡兵ながらも奮戦した。豊臣秀吉の勢力が東に伸びてくると、これに敵対姿勢を見せる。
その結果、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、改易となったが、重臣大田原晴清の陳謝により、資晴の子・那須資景に五千石の所領が与えられ、那須氏の存続は許された。一説には奥州における一揆勢力と那須氏再興の動きが連携することを恐れたからだとも言われている。
その後、豊臣秀吉より罪を許され、資晴自身にも五千石が与えられて、文禄の役においても名護屋城を守備している。晩年は、徳川家康の御伽衆を努め、慶長15年(1610年)死去。なお、子の資景は、資晴の遺領も合わせて石高が一万石に達し、那須藩を立藩、養子那須資弥の代に資晴の悲願であったと言われている旧領烏山城に復帰している。
資晴個人は武勇に優れ、局地的な戦いでは勝利を治める事が多く、一人の武将としては優秀であったが、 大局的な政治感覚には劣り、時勢を見誤り小田原の陣での遅参、改易となってしまった事で 酷評される事も多い。