那須資景
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那須 資景(なす すけかげ、1586年(天正14年) - 1656年2月20日(明暦2年1月25日))は、江戸時代前期の大名・下野那須藩初代藩主。那須資晴の嫡男。母は結城晴朝の娘。那須藩2代藩主那須資重は子。従五位下左京大夫。幼名は藤王丸。
天正18年(1590年)、父資晴が、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、一度は改易されたが、重臣大田原晴清の陳謝により、当時5歳であった藤王丸に5000石の所領が与えられ、那須氏は存続を許される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その後、下野那須藩1万7000石の大名として復帰。慶長19年(1614年)・翌元和元年(1615年)の大坂の陣では本多正信隊に属し、落人の首75級を挙げている。寛永元年(1624年)、隠居し、家督を子の資重に譲った。しかし、寛永19年(1642年)、資重は父に先立って死去し、無嗣改易になった。ただし、資景は存命していたため、5000石を与えられて、旗本として那須家の存続は認められた。明暦2年(1656年)、71歳で死去。
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