赤沢朝経
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時代 | 室町時代後期(戦国時代) | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 永正4年6月26日(1507年8月4日) | |||
別名 | 源次郎(幼名)、宗益 | |||
諡号 | 沢蔵軒宗益 | |||
主君 | 細川政元 | |||
氏族 | 赤沢氏 | |||
子 | 政経、養子:長経 |
赤沢 朝経(あかざわ ともつね)は、戦国時代(室町時代後期)の武将。清和源氏(河内源氏)の流れを汲む信濃守護家小笠原氏の庶流。家督を譲った後は、入道宗益と称した。
赤沢氏の本拠地は信濃国塩崎城で、朝経は家督を嫡子政経に譲って上洛。本家小笠原氏に倣って「糾法(弓法)的伝」(小笠原流)を室町幕府の管領細川政元に伝授した縁で、将軍足利義政の弓道師範、更に武者所を兼任するに至った。
その後、細川政元の重臣として山城・河内・大和など各地を転戦して武功を挙げ、山城上三郡守護代や幕府料所河内十七ケ所の給人、近衛家領山城五ケ庄の代官などに任じられている。
永正元年(1504年)、薬師寺元一と結託して主君・政元の廃立とその養子である細川澄元の擁立を企てたが、元一の弟・薬師寺長忠らによって鎮圧されて捕らえられた。しかしその豪勇を政元から惜しまれて助命され、永正2年(1505年)には罪を許されている。
その後は政元の忠実な家臣として永正3年(1506年)には大和に侵攻して畠山義英や畠山尚順らを破り、さらに大和の寺社勢力も破って大和を平定する。さらに三好之長と共に畿内各地に転戦して細川氏の勢力拡大に貢献した。
永正4年(1507年)、政元の命令を受けて丹後の一色義有を攻めるが、その戦いの最中である6月23日に政元が家臣の薬師寺長忠らによって暗殺されたことを知ると、軍を京都に撤退させようとしたが、一色義有や丹後の国人の反撃を受け、6月26日に自害に追い込まれた。