西美濃三人衆
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西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)は、戦国時代、美濃斎藤氏の有力な家臣だった稲葉良通(一鉄)、安藤守就(道足)、氏家直元(卜全)を指す。単に美濃三人衆ともいう。
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[編集] 斎藤家での活動
稲葉、安藤、氏家の連名による文書が残されており、斎藤家において重要な立場をこの三者が占めていたことが窺われる。この三者に加えて不破光治が連名している文書もあり、このため、光治を含めて美濃四人衆と呼ぶこともある。また、安藤、氏家に加え、日根野弘就、竹腰直光、日比野清実、長井衛安が連名して署名している文書も見つかっており、彼らを称して斎藤六宿老と呼ぶこともある(これには稲葉は含まれない)。
[編集] 織田家での活動
三人衆は斎藤龍興の代に相次いで斎藤氏を離反し、新たに美濃の領主となった織田氏の配下に入る。 織田氏の元では、織田信長の直属軍として転戦する。1571年には長島一向一揆討伐戦において氏家直元が戦死、このときは子の直通が引き継いだ。しかし、1580年に、安藤守就が罪を得て追放されたため、美濃三人衆は消滅した。この追放劇には尾張・美濃の軍団を子の織田信忠の下に再編成しようとした信長の意図もあったとされる。
[編集] その後
本能寺の変後、旧領復帰のため蜂起した守就ら安藤一族を討伐したのはかつての三人衆の同僚であった稲葉一鉄であった。