西光万吉
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西光 万吉(さいこう まんきち、本名清原一隆、1895年4月17日-1970年3月20日)は、大正・昭和期の部落解放・社会運動家、政治運動家、著述家。全国水平社設立の中心人物で、水平社旗の意匠の考案者および水平社宣言の起草者として知られる。昭和初期には国粋主義に傾倒し、皇国農民同盟などの極右団体を指揮、ファシズムを強力に推進したが、戦後に至ると一転して日本の再軍備に反対した。
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[編集] 略歴
- 1895年(明治28年)、奈良県南葛城郡(現在の御所市域内)に村の穢寺たる西光寺(浄土真宗本願寺派)の長男として生まれる。
- 1901年(明治34年)、掖上村立尋常小学校に入学。
- 1905年(明治38年)、御所高等小学校に入学。
- 1909年(明治42年)、奈良県立畝傍中学校(現畝傍高校)に入学。
- 1911年(明治44年)、京都市平安中学校(現平安学園高校)に編入学。
- 1912年(明治45年)、同校退学。
- 1916年(大正5年)、阪本清一郎(後の水平社共同設立者の一人)との共同生活に入る。
- 1917年(大正6年)、病気を患い奈良に帰郷。
- 1919年(大正8年)、郷里において、『黒潮会』を発起し、セレベス移住をめざす。阪本、駒井喜作が参加。
- 1920年(大正9年)、郷里において、阪本が『燕会』を発起し、西光は消費組合部担当となる。社会主義同盟に参加。
- 1921年(大正10年)、上半期は自殺願望や絶対避妊論に呪縛される。下半期には『特殊部落民解放論』の著者佐野学に会うため上京。帰郷後、阪本、駒井らとともに水平社創立の準備にかかる。
- 1922年(大正11年)、大阪の中之島公会堂で開催された大日本平等会発会式(2月21日)の場において、水平社創立の旨を広く宣伝する。3月3日、京都の岡崎公会堂にて全国水平社創立大会を開き、水平社創立宣言を発表。
- 1928年(昭和3年)、三・一五事件において検挙を受け投獄。
- 1933年(昭和8年)、共産主義から転向して仮釈放ののち阪本とともに『街頭新聞』を発刊、言論活動を行うとともに大日本国家社会党に入党。
- 1970年(昭和45年)、和歌山市日赤病院にて没する。享年75。
[編集] 特記事項
- マルキシズムを背景として天皇制を敵視する運動家・解放理論家が(特に戦後)多数を占めるなかで、彼は明治天皇を「解放令」を発布した部落解放の恩人と位置付けたが、解放運動や農民運動を伸展させるため、直接的な天皇批判を避けたのが実情。
- 生涯において所属した団体は多岐に亘っている。燕会(区内)、日本社会主義同盟、全国水平社、労働農民党、日本共産党、大日本国家社会党、皇国農民同盟、日本社会党。なお、戦後は和栄政策の実現に邁進する。
- 絵画の才覚に優れており、1913年(大正2年)に国民美術展覧会で入賞したほか、1914年(大正3年)には二科展における入選も受けている。
- 人権標語などにおいてよく用いられる有名なフレーズ人間に光あれ(水平社宣言の締めの一文)が多くの場合において『にんげんに~』と読まれていることについて、『あれはじんかんと読む』とも言われている。
- 住井すゑ著「橋のない川」に登場する小森村安養寺の息子、出自を秘匿した上で進学し画家を志すが激しい差別を前に挫折、そして水平社の設立に奔走する眉目秀麗な男子、村上秀昭(秀坊ん)のモデル(ただし作中の彼は天皇制に反対である)。
[編集] 関連書籍
- 西光万吉著作集 全四巻 (涛書房)
- 西光万吉集 西光万吉集編集委員会 (解放出版社) ISBN 4759244042
- 戯曲沢村辰之助 西光万吉『戯曲沢村辰之助』刊行委員会 ISBN 4759250069
- 西光万吉の浪漫 塩見鮮一郎 (解放出版社) ISBN 4759250115
- 忘れさられた西光万吉―現代の部落「問題」再考 吉田智弥 (明石書店) ISBN 4750315990
- 西光万吉 Century Books―人と思想 師岡佑行 (清水書院) ISBN 4389411101
- 至高の人 西光万吉―水平社の源流・わがふるさと 宮橋國臣 (人文書院) ISBN 4409240625
[編集] 関連事物
- 不戦和栄の碑 -西光万吉永住の地-
- 西光万吉記念室
- 大阪人権博物館(リバティおおさか)内