被害者学
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被害者学(ひがいしゃがく)は、犯罪被害者に注目する立場から、犯罪学に関する諸政策を研究する学問。
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[編集] 概要
従来、犯罪が起きたとき、国家が犯罪者を処罰するという観点が存するのみであり(応報刑)、被害者の存在は等閑視されていた。後に、犯罪者の社会復帰を重視する立場(教育刑)が台頭するが、せいぜい地域社会に注目するところ止まりであった。そこで、長年忘れられていた存在である被害者に注目し、被害者の救済はもちろんのこと、被害者の視点から刑事司法を再構成しようと試みるのである。かつて議論がなされた修復正義(RJ)も、この観点から説明することが可能である。もっとも、被害者保護だけでは刑事司法全体を的確に把握することが困難である旨の批判も加えられている。
[編集] 被害者学の成立
従来、犯罪に関する研究は犯罪者や犯罪現象に着目され、被害者自体には着目されてこなかった。そのような状況の中で、初めて犯罪被害者に注目し、被害者学の概念を提唱したのは、ハンス・フォン・ヘンティッヒ(Hentig,Hans von)である(中田修『犯罪精神医学』金剛出版、東京、1972年)。彼は1948年に犯罪者と被害者の関係を詳細にわたって研究し、論文にまとめ発表した。刑法は能動側を犯罪者、受動側を被害者と定義し、その精神的要因はなんら考慮されない。同じ罪種で、同じ状況下で、同じ手口で犯した犯罪について、その犯罪者と被害者の関係を分析し、考察するところ科学は犯罪者と被害者の関係について、一層の包括的知識を有するとしている。1954年エレンベルガーが被害者学の現状を整理し、精神医学的、精神分析的考察を試み、体系化の下地を創った。メンデルスゾーンは1956年に従来の研究を包括し、被害者学という学問を体系化した。この論文が後述の通り日本へ紹介されることになるが、彼は1947年に既に被害者学について大学で講演を行っていたという(中田修『被害者学の展望』犯罪学雑誌25巻6号1960年)。以上のような経過を経て被害者学は成立した。
[編集] 日本における沿革
日本において最初に被害者学が紹介されたのは1958年のことである。被害者学(victimologie)という語を創出したメンデルソーン(Mendelsohn, B.)が犯罪被害者に対する系統的研究の論文を世界の主な犯罪学者へ送付し、それを受けて日本語訳され紹介されたことが始まりである。この論文は日本では法医学の権威であった古畑種基博士、犯罪生物学の吉益脩夫博士らが受け取り、吉益脩夫教授門下であった中田修が犯罪学雑誌へ紹介(『犯罪学雑誌』24巻6号1958年)し、その後、古畑、吉益の発案により東京医科歯科大学において被害者学に関するシンポジウムが開催され(1959年)、広く知られるようになった(中田修『犯罪精神医学』金剛出版、東京、1972年)。
[編集] 学問的な広がり
1990年に日本被害者学会が発足し、1993年には東京医科歯科大学難治疾患研究所内に犯罪被害者相談室が設置され、犯罪被害者に対するカウンセリングなど直接的支援体制が確立した。
被害者の保護や証拠の研究などは当初医学生化学的手法が中心であり、専攻する者もほとんど医師であった。しかし実際の研究の中で法律学・社会科学研究者の中でも研究対象として選ぶものが増えた。近時では社会政策・刑事政策の一断面としても注目されており、常磐大学など正面から研究する大学も多い。
[編集] 参考文献(論文)
- 中田修『被害者学の展望』犯罪学雑誌25巻6号1960年
- 中田修『メンデルソーンの被害者学』犯罪学雑誌24巻6号1958年
- 日本被害者学会編『被害者学研究』成文堂(年刊・一部複数刊)創刊号(1992年)~15号(2005年)